大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和53年(ワ)12508号 判決 1984年6月29日

原告

加納良昭

右訴訟代理人

百瀬和男

白谷大吉

志賀剛

被告

右代表者法務大臣

住栄作

右指定代理人

瀬戸正義

外三名

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右訴訟代理人

吉原歓吉

右指定代理人

西川仁

外三名

主文

一  被告らは、原告に対し、各自、金二四〇万円及び内金二〇〇万円に対する昭和五四年一月二一日から、内金四〇万円に対する本訴第一審判決言渡しの翌日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その一を被告らの負担とし、その余を原告の負担とする。

事実《省略》

理由

第一  事件の概要及び経過について

請求原因1の事実は、(五)の控訴した日を除き、その余はすべて当事者間に争いがなく、右控訴の日が昭和五〇年三月二〇日であることは、原告との間においては争いがなく、被告東京都との間においても、弁論の全趣旨により認めることができる。

第二  警察官の違法な職務行為の有無について

一原告を本件放火事件の容疑者として捜査するに至つた端緒

1前記当事者間に争いのない事実並びに<証拠>を総合すれば、次の各事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 捜査当局は、昭和四八年一〇月二六日深夜に発生した富士高の火災について、三か所から連続して火が出ていること、火災発生現場に火の元になるものが見当たらないことなどから、当初より、放火との疑いを抱き、翌日の同月二七日には、所轄の中野警察署に警視庁刑事部捜査第一課火災捜査係の武藤警部、矢野警部補外五名の係員の応援を得て、合同捜査本部を設け、矢野警部補がデスク(指揮者)となつて、武藤警部及び矢野警部補以外の警視庁の五名の警察官と中野警察署の五名の警察官とが各一名ずつ二名の組五組を作り、富士高の全日制及び定時制の生徒の中から長期欠席者、素行不良者等を探すための富士高教職員からの聞込み、富士高OB、中途退学者の捜査、火災発見者、蝟集者の発見、事情聴取、火災現場付近で不審な行動をもっていた者、不審な服装でいた者の発見のための富士高周辺の地取り捜査等を行つた。

(二) そのうち、本件火災の消火活動を富士高の付近で見ていて当時警察官の職務質問を受けたという富士高定時制の退学者である少年について、真壁警察官が事情聴取をしたところ、その少年は、当日は富士高定時制四年の小倉の下宿に泊りに行くという同定時制一年の川内と遊んでいて送つてもらつたというような供述をした。

そこで、真壁警察官は、同年一一月五日に、右供述の裏付けを得るため小倉の下宿に行つたところ、居あわせた川内から、「小倉が、火災発生の前に校内で原告を見たと言つている。」との聞込みを得たので、これを矢野警部補に連絡した。

(三) 連絡を受けた矢野警部補は、直ちに、小倉、川内を中野警察署に呼び事情聴取することを命じると共に、原告の在学関係、身辺関係の捜査に着手した。

同日、中野警察署において、小倉は、「火災のあつた日の午前一時半ころ、校庭内でかけ足をしていると、北校舎裏庭(北側)に人影が見えたので、様子を見るため、体育館北側にまわり、傾斜地の下のブロック塀の柱のところに隠れて見ていると、人影が自分の脇一メートル位のところを通つた。顔を合わせると、それは原告だつた。」との趣旨の供述をし、川内も、「火災のあつた日、火災を小倉と見て帰る途中、小倉から原告を見たと聞いた。」との趣旨の供述をした。

2右認定事実によれば、捜査当局が、一一月五日に小倉供述を得た以後、小倉供述の信ぴょう性を検討する一方、原告について本件放火の嫌疑を持ち捜査を開始したこと自体には、何らの違法も認めることはできないものということができる。

3なお、斎藤警察官が全日制一年C組の出席簿が紛失したとの届出を受けたこと、原告と被告東京都との間において争いがなく、<証拠>によれば、右出席簿は、放火のあつた一一二番教室の隣りの全日制一年C組の教室から、放火のあつた前日の昭和四八年一〇月二五日午後四時半ころから翌二六日午前八時半ころまでの間に紛失したことが認められる。

しかしながら、<証拠>によれば、全日制一年C組の担任である伊藤教諭は、斎藤警察官に対し、直接出席簿紛失の事実を話したのではなく、富士高側の窓口となつていた教師からその事実が伝えられたこと、そのため、出席簿が紛失したと考えられる時間帯について、明確な情報が捜査当局に与えられず、また、全日制一年C組で、そのころ、自宅謹慎の処分を受けた生徒がいたという事実も、捜査当局の要請にもかかわらず、学校側から伝えられていなかつたことが認められるから、捜査当局が、出席簿紛失について、更に、それを持ち去つた者、時間、動機等を捜査しなかつたとしてもそれを違法であるとまではいえず、また、原告について、前示のように捜査すべき端緒があつた以上、右出席簿に関する捜査をすべきであつたとしても、そのことをもつて原告の捜査を開始したことを違法ということはできない。

二窃盗の被疑事実による逮捕についての嫌疑の有無

1<証拠>を総合すれば、次の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 捜査当局は、昭和四八年一一月五日以降の原告の身辺捜査によつて、原告は富士高定時制一年に在籍していること、原告には同四一年九月に警視庁機動隊の寮に住居侵入したことによる罰金の前科があることのほか、原告は酒が好きで、夜間出歩くことが多い、定職がないのに金回りがよい、同性愛の性癖がある、同四八年一〇月二二日から行われた富士高の中間試験に欠席している等の不審な点があることを把握した。

(二) それと共に、捜査当局は、富士高の原告の友達から、原告が元警察官であると自称していること、原告の下宿の部屋で警察官の制服制帽を見たとの聞込みを得、大阪府警に対し、原告が在職した事実の有無を問い合わせたが、在職事実なしとの回答が返つてきた。

また、警察官の制服等が盗難にあつた事件の有無を調べたところ、昭和四五年五月七日に発生した警視庁四谷警察署四谷見附派出所における警察官の制服制帽、携帯受令機等の窃盗事件(以下「四谷見附窃盗事件」という)の犯人が未検挙であることがわかつたため、原告について、右窃盗事件の嫌疑を持つた。

(三) そこで、捜査当局は、昭和四八年一一月一二日、原告の部屋で警察官の制服制帽を見たことがあると言つていた原告の友達の浜崎を呼び、右制服制帽を見たときの様子などについて事情聴取して供述調書を作成する一方、四谷見附窃盗事件と本件放火事件と双方について取り調べる目的で、原告に任意出頭を求め、右取調べを行つたところ、四分見附窃盗事件を自白したので、同事件について逮捕状の発付を得て、原告を逮捕した。

2右認定事実によれば、一一月一二日の四谷見附窃盗の被疑事実による原告の逮捕には、原告が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があつたことは明らかであり、右逮捕に必要な嫌疑を欠く違法なものであるということはできない。

三別件逮捕、勾留の有無

1原告が四谷見附窃盗の被疑事実により逮捕勾留されたことは原告と被告東京都の間において争いがなく、右逮捕に逮捕の理由があつたことは前示のとおりであり、したがつて、それに続く勾留にも勾留の理由があつたということができる。また、<証拠>を総合すれば、四谷見附窃盗の被疑事実は、その罪質、態様において悪質であり、その賍品が過激派学生に悪用される恐れも考えられたため、警視庁において重要事件として指定されていたこと、原告は単身でアパートに居住し、定職についていなかつたこと、昭和四八年一一月一二日の任意出頭時において、四谷見附窃盗のほか同種余罪多数を自供したこと、右窃盗事件は、同月二二日に、他の三件の窃盗と共に起訴され、原告は、同五〇年三月七日に、他の一一件の窃盗と共に、懲役一年六月、執行猶予二年の有罪判決の言渡しを受けたことが認められ、右認定事実によれば、四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕、勾留にはその必要性があつたということができる。

したがつて、四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕、勾留には、その理由と必要性があり、それ自体としては、何ら違法な点はないものというべきである。

2しかしながら、ある被疑事実(別件)の逮捕、勾留が、専ら、いまだ証拠の揃つていない別の被疑事実(本件)について被疑者を取り調べる目的で、証拠の揃つている別件の逮捕、勾留に名を借り、その身柄の拘束を利用して、本件について逮捕、勾留して取り調べるのと同様な効果を得ることをねらいとしたものであるときは、日本国憲法及び刑事訴訟法の定める令状主義を実質的に潜脱するものとして、別件の逮捕、勾留が違法となるものというべきである。

3ところで、四分見附窃盗の被疑事実は、本件放火事件の捜査中探知したものであること、右窃盗の被疑事実による逮捕勾留中、本件放火についても取調べを行つたことは、原告と被告東京都との間において争いがなく、<証拠>によれば、捜査当局は、昭和四八年一一月一〇日ころには、原告に対し本件放火のかなり強い嫌疑を持つていたが、当時の証拠資料のみではいまだ本件放火について逮捕状の請求をすることはできないとの判断にたつていたこと、四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕にあたつて、当初から、右逮捕勾留中に、本件放火の取調べも行う意図をもつていたことが認められ、<証拠>を総会すれば、昭和四八年一一月一二日の四谷見附窃盗の逮捕状執行から同月二四日の本件放火の逮捕状執行までの間の四谷見附窃盗事件ほか窃盗関係の取調べは中野警察署の内田警察官が、本件放火関係の取調べは矢野警部補及び武藤警部が行い、その各取調時間は次の取調時間表のとおりであること、取調べが昼食時又は夕食時にかかるときは食事のため三〇分位取調べを中断したこと、右食事時間を除いた窃盗関係の取調時間は合計で約二二時間、本件放火関係の取調時間は合計で約八〇時間となることが認められる。

取調時間表

取調年月日

(昭和四八年一一月)

窃盗関係取調

本件放火関係取調

一二日

一八、〇五~一九、〇〇

一三日

一〇、〇〇~一四、三〇

一四、三〇~二一、一五

一四日

八、三〇~  九、四〇

九、四〇~一一、二五

(区検押送)

一二、四五~二一、五六

一五日

九、一〇~二一、五〇

一六日

九、〇五~二一、一〇

一七日

九、一〇~一二、一〇

一二、一〇~一七、三〇

一八日

九、一〇~一二、〇〇

一二、〇〇~一八、一〇

一九日

九、一〇~  九、四〇

九、四五~一一、二五

(区検押送)

一五、三〇~一七、三五

二〇日

一〇、三五~二一、一〇

二一日

八、五〇~  九、〇〇

九、四〇~一二、一〇

(区検押送)

一三、〇〇~一九、三〇

二二日

九、一〇~一二、〇〇

一五、〇〇~二〇、三〇

二三日

九、三〇~一九、二三

二四日

九、二五~一二、二五

しかし、前記二に認定の四谷見附窃盗事件の逮捕、勾留の必要性をも考慮すると、捜査当局が四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕の当初から本件放火取調べの意図を持つていたこと及び窃盗関係の取調時間の長さに比較して本件放火関係の取調時間がはるかに長かつたことをもつて、直ちに、捜査当局が専ら本件放火取調べの目的で別件の四谷見附窃盗の逮捕、勾留に名を借りその身柄の拘束を利用して本件放火について逮捕、勾留して取り調べるのと同様な効果を得ることをねらいとしたものであると推認することはできず、他に右のような捜査当局の目的を認定するに足りる証拠はない。

したがつて、四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕、勾留が、逮法な別件逮捕、勾留であるということはできない。

四取調受忍義務がないことの告知の要否

刑事訴訟法一九八条一項但書は、「被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる」旨規定されているので、逮捕又は勾留されている被疑者は、捜査官の取調べのための出頭要求に対して、出頭を拒み、又は出頭後任意に退去することはできない。すなわち、取調受忍義務があると解されるところ、身柄の拘束の許否につき事実ごとに厳格な司法審査を経ることを必要とした刑事訴訟法の事件単位の原則に照らすと、被疑者がひとたび逮捕勾留されるといかなる事実についても逮捕勾留された事実についてと同様の取調を受忍しなければならないということは相当でなく、被疑者が右取調受忍義務を負うのは、裁判所による司法審査を経た逮捕、勾留の基礎となつた事実及びこれに関連する事実に限定されると解すべきであり、被疑者が右事実と関係のない別個の事実の取調べを受ける場合は、右取調受忍義務はないと解すべきである。

しかしながら、刑事訴訟法一九八条一項の規定は取調受忍義務不存在の告知義務を捜査官に課したものとは解することができず、同条二項も、供述拒否権の告知義務について規定するのみで、取調受忍義務不存在の告知義務は規定しておらず、他に右の告知義務を定めた規定は存しない。

そうすると、取調受忍義務の不存在を告知しなかつたことをもつて、直ちに違法な取調べであるということはできない。

五本件放火の被疑事実による逮捕についての嫌疑の有無

昭和四八年一一月五日に、捜査当局が、小倉から、「本件放火前校庭で原告を見た」との供述を得、川内から、「小倉から校内で原告を見たと聞いた」との供述を得たことは、前記一1(三)で認定したとおりであり、原告の身辺捜査により原告につきいくつかの不審な点が判明したことは、前記二1(一)で認定したとおりであつて、<証拠>によれば、同月二〇日、二一日、二二日、二三日には、放火の媒介物、手段方法を含む詳しい原告の自白調書が得られたことが認められる。

右事実によれば、同月二四日の時点では、原告が本件放火を犯したことを疑うに足りる相当な理由があつたというべきであるから、本件放火の被疑事実による逮捕が、逮捕に必要な嫌疑を欠く違法なものであるということはできない。

六取調べにおける拷問脅迫等の有無

四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕勾留中の本件放火の取調べと本件放火の被疑事実による逮捕勾留中の本件放火の取調べとを通じ、取調官による拷問、脅迫、強制、誘導の有無について検討する。

1<証拠>によれば、本件放火について原告を、矢野警部補が、昭和四八年一一月一二日、一三日、二二日から二六日、二八日から三〇日、一二月一五日から二二日に、武藤警部が、同年一一月一三日から一八日、二〇日から二二日に取り調べたこと、その間、両取調官に対し、原告は、一一月一二日から一八日までは本件放火を否認し、同月二〇日から二四日までは自白し、同月二五日には、一旦否認した後自白し、同月二六日以降は自白を続けたことが認められる。

2そこで、まず、昭和四八年一一月二〇日以降の原告の自白内容について検討する。

(一) <証拠>によれば、次の各事実が認められる。

(1) 原告は、昭和四八年一一月二〇日には、「一一一番教室では、北側廊下の北側一一二番教室寄りに火をつけた」「一一二番教室では、教室内の後ろ廊下側に火をつけた」「雑誌やわら半紙、ボロ布やガソリンを使つて放火した」「机の下に紙を置いて火をつけた」「化学準備室では傘立てに放火した」と供述したが、右一一一番教室で火をつけたという位置及び一一二番教室で火をつけたという位置は、実際に発火した位置(一一一番教室では北側廊下の南側便所寄り、一一二番教室では教室内の後ろ南側窓ぎわ)といわば正反対ともいえる位置であつたほか、原告の右供述は、当時捜査当局が把握していた本件放火の態様とすべて異つていた。同日の供述調書には、「化学準備室入口付近にあつた棚のようなものの中に紙などをおしこんで火をつけた」「全日制一のA、一のBの教室の外と中に火をつけた」としか記載がない。

(2) 同月二一日に、原告は警視庁本庁でポリグラフ検査にかけられた。検査の質問表は、検査技師が、武藤警部らから聞いた事件の内容及び原告の供述内容をもとに、放火の場所はどこか、放火の際何を使つたかなどの各設問毎に、本件放火に関係のある内容と原告が二〇日に供述した内容を含む複数の本件放火に関係のない内容とで答えを作つた。ポリグラフ検査を行うことは原告が否認していた同月一七日捜査会議で決められていたが、同月二一日に、検査の前、武藤警部から原告が前日自白したと聞いた検査技師は、ポリグラフ検査は、本来、被疑者が否認しているとき事件の内容をどれだけ知つているか調べるため行うものであつて、被疑者が自白した以上、精神的な動揺があるから、もはや検査に適さないし、やる必要がないと言つたところ、武藤警部は、自白の内容が事件の内容とくい違つているのでそのくい違いが意識的なものかどうかみてくれと言つて検査を求めた。そこで、検査技師も、故意に事件の内容と異る自白をしているときは、自白の内容と事件の内容とで事件の内容を聞いたときより大きな反応が出るとの仮説もあるので検査を行つたが、結局、本件ではそのような反応は出なかつた。

(3) 武藤警部は、ポリグラフ検査後直ちに、その日に限つて警視庁刑事部捜査第一課で原告を取り調べた。同日の供述調書には、「化学準備室出入口の処にあつた高さ二米位の本棚のように見えた木製の中で下の方に」「私の教室の中よりボロとかワラ半紙をもつて来て火をつけた」「一のA教室外廊下南側中央の処にあつた掃除用具入れの中にトイレットペーパーをつかつて火をつけた」「一のB教室では、机、イスなどに紙類、モップなどをつかつて教室内の後ろ南側窓ぎわに火をつけた」旨の記載があり、火をつけたという位置が実際に発火した位置とほとんど合うようになつた。

(4) 一一一番教室の放火の媒介物も、実際に用いられたトイレットペーパーと供述が合うことになつたが、媒介物にトイレットペーパーが用いられたということはポリグラフ検査の前にすでに武藤警部が原告に教えていた。また、原告は、本件放火には油が用いられたとの新聞記事を読んだ友人から本件放火にガソリンが使われたという話を以前聞いたことがあつたので、二〇日及び二一日に、放火の媒介物としてガソリンを用いたと供述していたが、同日、武藤警部から間違いないのかと追及され、「ガソリンは使用したかどうかハッキリしません」との供述に変わつた。

右の各事実が認められ、<証拠>中右認定に反する部分は前顕証拠に照らしてたやすく措信することはできず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

更に、ポリグラフ検査後の取調べの際、武藤警部が原告に対し、「ポリグラフ検査の質問事項の中に犯人であれば知つていることが一つある。」と言つたことは、原告と被告東京都との間において争いがなく、「正しい答えが一つある。」と言つたことも前掲甲第五五号証により認められる。

右認定事実によれば、武藤警部は、ポリグラフ検査は本来、被疑者が否認している場合に行うべきであつて、自白のある本件では適当でないとの検査技師の提言にもかかわらずあえて行うことを求め、検査直後に原告の取調べを行い、「質問事項の中に正しい答えが一つある。」などとことさら告げる必要もないことを告げ、検査後の供述調書の内容は検査前の供述とかなりの程度変わつているのであるから、武藤警部は、ポリグラフ検査を利用して、原告に対し、放火の場所、方法等につき甚だしい誘導をしたものと推認せざるをえず、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二) <証拠>によれば、昭和四八年一一月二一日から同年一二月二二日までの原告の警察官に対する本件放火の実行行為及びそれに接着する行為に関する供述に次のような変遷のあることが認められ、また、次に掲記する各証拠によれば、右変遷に符合する取調官側の認識の変化又は勘違いが存することが認められる。

(1) 化学準備室前の放火場所について、「本棚のように見えた木製のもの」(一一月二一日)、「木製の本棚のようなロッカー」「下の方の二本引の右の方の引戸を全部開けた」(一一月二三日)、「掃除道具入れのロッカー」「引違い引戸の向つて左側の引戸を右手で右の方に引いた、私が開けた戸は内側の戸です」(図面添付、一一月二八日)、「掃除用具入れ、二本引きの引違い戸がついている」「右手で掃除用具入れの戸の向つて左側の引戸を右の方に引いて開けた、私が開けた戸は内側の戸になる」(図面添付、一二月一六日)、「掃除用具入れは左、右、両方に開くトビラ式の箱だつた」(図面添付、一二月二一日)というように、「本棚のようなもの」から「掃除用具入れ」に変わつており、その掃除用具入れも、本棚のようなものと供述していたときからずつと「二枚引き戸」とその開け方や、戸が内側か外側かまで詳しく供述していたのに、一二月二一日になつて、突如、「トビラ式」に変わつている。しかも、同日の調書には、「初めのころに調べられたときは確しか刑事にはトビラ式ですと申し上げましたがその后の調べでそれもだんだん不明確になり、引戸の画を書いてお話してしまつたのです」と、調書に見られる供述の変遷とは異なる弁解が記載されている。

ところで、<証拠>によれば、化学準備室前の燃え落ちた掃除用具入れの隣りにあつた標本棚は、上下二つに分かれた各二枚引き戸であつたこと、一一一番教室前の掃除用具入れは二枚引き戸であつたこと、右は、火災でかなり燃えながらも、実況見分時において確認することができたことが認められ、<証拠>によれば、武藤警部、矢野警部補は、実況見分時に、右の状況を確認したことが認められる。

また、<証拠>によれば、矢野警部補は、化学準備室前の掃除用具入れを、一一一番教室前の掃除用具入れと同様二枚引き戸であるとずつと勘違いしていたが、一二月二一日の実況見分のために当日か又は前日に、二枚引き戸の箱を用意するよう指示した際、他の警察官から、トビラ式であることを指摘され、一〇月二六日の実況見分調書を読み直してみて、その時はじめて勘違いに気付いたことが認められる。

(2) 化学準備室前の放火の媒介物について、「ガソリン、ボロ、ワラ半紙」(一一月二一日)、「ガソリンは間違いで、ボロ、ワラ半紙」(一一月二一日)、「自分の教室用くづ入れの紙くず、参考書二、三冊」(一一月二三日)、「参考書三冊、クヅ入れの紙クヅ(一一月二三日)、「参考書三冊、クヅ入れの約クズ」(一一月二八日)、「三冊位の参考書のような本、クヅ入れの紙クズ」(一二月一六日)と変わつている。

ワラ半紙、紙くずという点は一貫しているが、ガソリンが媒介物に使用されたか否かは、本来はつきりするはずであるのに、これについて供述が変わつており、また、参考書についても、一二月一六日の調書では、「三冊の内一冊は、横一五センチ位、縦が二三センチ位、厚さ一センチ強位(二〇〇頁位)のもの」と詳しい記載がある一方で、参考書とは断定しない形となつている。

ガソリンの供述が変わつた経緯は前記認定のとおりであり、<証拠>によれば、捜査当局は、原告が参考書を持ち出したという教室内で参考書をなくしたという者がいるか否かを探したところ、河野雅彦が、一〇月二三日から二九日の間に学校の机の中に入れている間に参考書一冊をなくしたと届出たので、一一月三〇日に同人の供述調書を作成したこと、右の供述調書には、「紛失した僕の参考書は、友達から同じ種類の本を借りて来ましたが、これによると縦二〇センチ、横一五センチ、厚さ1.5センチ位の大きさで、ページ数は一八〇ぺージのものです。」との記載があること、捜査当局は、それ以外に参考書をなくした生徒を探し出せず、かえつて、一一月末か一二月初めころに、文集三冊位がなくなつたとの聞込みを得たことが認められる。

(3) 一一一番教室前廊下の掃除用具入れ放火の媒介物について、それがトイレットペーパーであるということは武藤警部が教えたものであることは前記認定のとおりであるが、その個数につき、「五個」(一一月二一日)、「五個位」(一一月二三日、一一月二六日)から一二月になつて「三個」(一二月一六日)に変わつており、それに伴いトイレットペーパーを選んだ方法も、「両手にもち」(一一月二三日)、「両腕にかかえるようにして持ち出し」(一一月二六日)「「右手の拇指、人指、薬指をトイレットペーパーのロールの穴の中に差し込んでつりあげて持ち」(一二月一六日)と変わつている。

ところで、<証拠>によれば、放火の媒介物として使つたトイレットペーパーが五個では多過ぎることが認められる。

また、トイレットペーパーを持ち出した場所も、便所に変わりはないが、「学校内の便所にはたいてい物置があり、物置の中にはトイレットペーパーの予備等便所で使用するものの予備が収納されております、私はこの物置を開けますと、内に横五〇センチ位高さ三〇センチ位巾三〇センチ位のダンボール箱の中にトイレットペーパー一〇巻位がありました」(一一月二三日)から「奥の中庭に面したマド下に男子用便所の間仕切りにそつて机のような台が一つおいてあり、その上に何個かのトイレットペーパーの予備がのつておりました」(一二月一六日)にかなり変わつている。

<証拠>によれば、捜査当局は、便所の清掃等をパートタイマーで行つていた井上恒子の供述調書を、一一月二二日に作成しており、同調書には、「便所内に古い机や椅子を置きその上にそれぞれ予備のトイレットペーパーを包装紙の侭置きます」との記載があることが認められる。

(4) 一一一番教室の放火の媒介物について、「机・イスなどに紙類、モップなどをつかつて」(一一月二一日)、「椅子か机を教室のすみにもつて行き、その上にトレーニングシャツとその脇に一のBの掃除具入れの中より竹ボーキ二、三本もつて行き」(一一月二二日)、「廊下の掃除用具入れのロッカーを開け中から竹ぼーき二本位を取りだして教室内に持ちこみ中庭側の後ろの方にあつた、何にか乗つている机が椅子のところにおいて」(一一月二三日)、「一Bの掃除用具入れの戸を開け中から竹の柄のついたシロホーキ二、三本を持ち出し、教室の一番後ろのそれも中庭寄りにおいてあつた生徒用の本の椅子の上に持つて来た竹の柄のシロホーキをおいて」「椅子の上には何かあつたように思いますが、今思いだせない」(一一月二八日)、「中庭寄りのマド寄りの机の後ろの方に生徒用の椅子が確か二個ならんでおいてあり、向つて右の方の椅子の上には何か布製の袋のようなものが乗つており、向つて左の方の椅子には竹ボーキ二本が柄を上にして椅子に立てかけてありました」(一二月一六日)というように、ほうきにつき、「竹ボーキ」が、一旦、「竹の柄のついたシロホーキ」に変わり、再び「竹ボーキ」となつており、また、いずれにせよ自分で「掃除用具入れの中から持ちこんだ」ものが、一二月一六日になつて、「柄を上にして立てかけてあつた」と大きく変つている。更に、椅子の上に乗つていたものは、「トレーニングシャツ」から「何かあつた」、「何か布製の袋のようなもの」と変わつている。

<証拠>によれば、「竹ボーキ」が「シロホーキ」と変わつたのは、原告がそのように言つたのではなく、矢野警部補が、「竹ボーキ」を、竹の柄のついた、掃くところがしゆろの毛でできた「しゆろほうき」と勝手に勘違いしたこととによることが認められ、<証拠>によれば、武藤警部、矢野警部補らは、実況見分の結果から、一一二番教室の放火に竹ぼうきが使われていること、竹ぼうきは廊下の掃除用具入れに通常入れてあることを知つていたこと、その後、捜査当局は、一年B組の担任高橋正和教諭から、一二月一日に事情聴取し、一一二番教室の中庭後方の窓のところにこわれて枠だけになつた生徒用の椅子が置いてあり、そこに「竹ぼうきが三本位柄の方を上にしてはく部分を下にして差込んであつた」ことをはじめて知つたことが認められる。

更に、<証拠>によれば、山田邦彦は、竹ぼうきの差してあつた椅子の隣りの椅子の上に、テニスウエアなどを入れたテニスバックとトレーニングシャツなどを入れたナイロンバックを置いていたが、それが放火で燃えてしまつたこと、実況見分時にトレーニングシャツの燃え残りがあつたのを見た武藤警部は、椅子の上にはトレーニングシャツが乗つていたと勘違いしたこと、矢野警部補は、放火のあつた当日から、右山田から話を開くなどして、椅子の上にはテニスバックが乗つていたのを知つていたことが認められる。

(5) 原告が人に見られたという時期について、「火をつけたあとしばらく校内をうろついた、体育館の裏あたりで誰れかに見られたと思います」(一一月二一日)が、「火をつけたあと、ただおろおろとその付近をあるき廻つた、何処をどのようにしてあるいたのかまた何処で誰れに見られたのが記憶はありません」(一一月二三日)となり、「火をつける前、体育館の裏の方だの校舎の方だのまたグランドの隅の暗い方だのをぶらぶらあるいた」(一一月二八日)、「校舎の北側に行くまでにあつちをあるきこつちをあるきしてふらふらしていた、体育館の裏の方もあるいたかもしれない」(一二月一五日)、「体育館の前あたりをあるいてから階段をおりて校舎の北側に行きぶらぶらした、そのとき体育館の裏の方にも行つたような気がするが判然としない、その間誰れにもあつたような気がしない」(一二月二二日)というように、当初、「放火後、体育館裏で人に見られた」というのが、放火後見られたという供述はなくなり、「人に見られた」という供述はないものの、「放火前、体育館の裏の方を歩いた」という点だけは強調されている。

<証拠>によれば、武藤警部は、小倉供述を誤解し、小倉が、放火後、原告を見たと勘違いしていたこと、これに対し、矢野警部補は、正しく、放火前に見たと理解していたことが認められる。

(6) 地下鉄富士見町駅を出てから富士高に行くまでの足取りについて、図面を書き、「駅を出てまつすぐ学校へ行つた」旨の供述(一一月二三日)が「駅をおりてから約二〇分程度電話を探し、どうしても電話が見つからず学校へ行つた」(一一月二八日)、「長距離の出来る電話が見つからず、浜崎のアパートの廊下の電話を思い出しそちらに向かつたが、途中でピンク電話であることを思い出し行くのをやめて学校へ行つた」旨の供述(一二月一五日)に変わつている。

原告が地下鉄で中野富士見駅に着いた時刻は遅くても終電の到着する時刻以前でなければならないところ、<証拠>によれば、捜査当局は、富士高の警備員である神通忠から、一一月二二日に事情聴取し、同人が放火のあつた当夜、午前零時六分から同三六分まで校内の巡回をしたことを聞いたことが認められ、また、前記認定のとおり、矢野警部補は、小倉が原告を午前一時三〇分ころ見たと言つているのを知悉していた。

(7) 原告が北側廊下の窓から校舎内に入つた入り方について、「この場所は教室前の廊下より一段と下つており私の背位の高さはありますが私は飛びおりております」(一一月二八日)から、「校舎内のこのマド下は丁度洗い場になつており流しがついておりましたので背を校舎の内に向けながら一旦流し場の上におり、こんどは向きをかえて丁度便所前の廊下におりました」(一二月一五日)と変わつている。

<証拠>によれば、原告が校舎内にはいつたという窓の廊下側の写真などがなかつたため、矢野警部補は、窓の下の状況を知らなかつたが、一二月一日から一五日の間に、窓の下に流しがあることを知つたことが認められる。

(8) 放火後、校舎内から外に出る時窓を閉めたか否かについて、「表に出ると私はマドを閉めずその場所からはなれました」(一一月二三日)が、「窓の戸を閉めたのか、開け放しであつたかは記憶にない」(一一月二五日、一一月二八日、一二月一五日)と変わつているが、<証拠>によれば、捜査当局は、原告の廊下の窓から入つたという供述を得るや、消防官が消火時に撮影した写真を検討し施錠の有無を確かめ、その際、窓の戸自体は閉まつていたと知つたことが認められる。

(三) 更に、原告の警察官に対する供述には、次のように真実放火現場にいた者の供述としては不合理な点が認められる。

(1) <証拠>によれば、燃焼実験の結果、一一一番教室前廊下の掃除用具入れは、点火後四五秒経過時には、先に点火した方の左側の炎が約1.2メートルの高さとなつて立ち上がり、開いた戸の隙間から若干吹き出してきたこと、点火後一分経過時には、両側の戸の隙間から火焔が左側は高さ約2.5メートル、右側は高さ約2.0メートルに立ち上がり、一分三〇秒経過時には、二本の火焔が上部で一本となり高さ3.93メートルの天井まで達し、一分四〇秒から二分を経過したころには、炎の高さが最盛期となつて、中から火がついた物が前方に飛び出して来たこと、その後点火後三分を経過するまでには、側板等全体が炎に包まれていたことが認められる。

しかるに、<証拠>によれば、原告の供述調書には、「一一一番教室内で火をつけてから一一一番教室の掃除用具入れのところを通ると、火はまだ箱の外に出ておらず、ただうつすらと白つぽい煙が両側の開いている戸の隙間から廊下に流れ出していた」旨の記載があるのみである。

(2) <証拠>によれば、富士高の北側にある佼成病院の入院患者の母親が、富士高の非常ベルの音で外を見て火事に気づいたことが認められ、<証拠>によれば、北側校舎に近い校庭においては、非常ベルの音は、聞く者に何らかの異常事態の発生を告げるものと受け取られるくらいけたたましく聞こえ、校舎から最も遠い校庭西部においても、明瞭に聞き取ることができることが認められる。

しかるに、<証拠>によれば、原告の供述調書には、「消防自動車のサイレンの音が聞こえてきた」との記載があることは認められるが、学校の非常ベルの音が聞こえたとの記載がある供述調書はない。

(四) 原告の警察官に対する本件放火の実行行為及びそれに接着する行為に関する供述には、右(二)のとおり、多くの重要な部分に大巾な変遷があり、変遷がしばしばあるにもかかわらず変遷する前の供述も後の供述もかなり詳しく、しかも、供述の変遷は、取調官が武藤警部から矢野警部補に変わつたとき、勾留執行停止が終わつた後、取調官が新しい事実を知つたすぐ後に多くみられ、取調官側の認識の変化と一致しており、取調官の勘違いがそのまま原告の供述となつていることが認められる。また、右(三)のとおり、真実放火現場にいた者の供述としては不合理な点も存する。

これらの事実によれば、武藤警部及び矢野警部補は、昭和四八年一一月二二日以降も、原告に対し、放火の実行行為につき全面的に誘導をしたものと推認せざるをえず、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(五) のみならず、原告が、右のように、取調官の誘導に乗り、かつ、誘導を受け続けたことは、原告の自白に至る過程及び自白を続ける過程に何らかの心理的強制があつたことを推知させるものということができる。

3原告と甲野との関係を利用した自白の強制、脅迫の有無について、検討する。

<証拠>を総合すれば、次の各事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 原告は、同性愛の性癖があつたが、昭和四〇年ころ、新宿のゲイバーでボーイとして働いていたとき甲野と知り合い、以後、同人と同性愛関係を結び、生活費一切の面倒を見てもらつていた。原告は、関西地方に暮らしている実父母とは、同年に上京して以来全く音信不通となつており、富士高入学に際しても甲野に保証人になつてもらうなど、甲野に対して、経済的のみならず精神的にも深く依存し、甲野をいわば親以上の存在として、強い恩義を感じていた。

甲野は、××××の第一人者で、文部大臣から重要無形文化財の保持者(いわゆる人間国宝)に認定されていた。

(二) 原告は、昭和四一年に警視庁機動隊の寮に住居侵入して牛込警察署に逮捕されたが、その際、同署から甲野の家に電話をかけたところ、甲野の妻が出たため、甲野は妻に原告のことを知られ、原告は甲野から後で厳しく叱られた。

また、昭和四八年一〇月に原告が富士高を続けて休んでいたため、学校から甲野の家に電話がかけられた。そのため、同月三〇日に、原告は甲野から、「家の方に電話されたんでは困るから先生によく事情を話して家の方に電話をしないように頼んで来なさい。」と言われ、同年一一月六日ころ、富士高に行き、担任の教諭に、「甲野さんは人間国宝でもあり迷惑はかけたくないので今後甲野さんのところに電話をしないで下さい。」などと頼んだ。

このように、原告は、甲野の妻や家族に原告と甲野との関係を知られることを心配しており、甲野との関係が公にされて、甲野の社会的地位や名誉に傷がつくことを憂慮していた。

(三) 捜査当局は、昭和四八年一一月五日以降、原告の身辺捜査をするや、原告の富士高入学の際の保証人が甲野であること、甲野の住所、職業等、人間国宝であることを知り、同月一二日までには、原告と甲野との同性愛関係も察知した。

武藤警部及び矢野警部補も、右各事実を知つていたのみならず、同月一三日までの取調べで、甲野が原告にとつては親以上の存在で、強い恩義を感じていることも知つた。

(四) 矢野警部補は、昭和四八年一一月一二日、原告を初めて取り調べた際、原告が甲野との関係を言い渋るのに対し、「君と甲野さんとはどういう関係か。君が言わなければ、甲野さんを呼んで聞くしかない。」と言つて、甲野の取調べを示唆したところ、原告は、以前牛込警察署から電話をかけられて甲野に叱られたことなどを話して、甲野を呼ばないでくれと頼んだ。

(五) 原告は、昭和四八年一一月一三日には、内田警察官に対し、甲野との関係を素直に述べ、同月一四日、一五日には、武藤警部に対しても、甲野との関係を詳しく述べた。

(六) 捜査当局は、昭和四八年一一月一三日、甲野の自宅で同人を参考人として取り調べようとしたが、甲野が妻のいる自宅での取調べを嫌つたので、中野署へ出頭することを求め、同月一五日、甲野が出頭したので、真壁警察官が参考人として取り調べ、供述調書を作成した。

武藤警部は、甲野がすでに右取調べを受けていることを知りながら、原告にこのことを隠していた。

(七) 武藤警部は、昭和四八年一一月一七日ころ、原告の取調べに際し、原告が一〇月二五日夕方から二六日朝までの行動がはつきりしないように言うので、「私の方としては、学校の先生からも友人からもいろいろと聞かなきやならない。」と言つてはつきりさせるよう求めたところ、原告から、「甲野さんからも聞くんですか。」と問われ、甲野がすでに取調べを受けたことを知りながら、「捜査としては親でも兄弟でも調べなきやならん。」と答え、原告の供述次第では甲野を取り調べることもありうることを示唆した。

(八) 原告は、窃盗関係の取調べを担当していた内田警部補に対しては、窃盗事件はすべて自白しながら、「放火はやつておりません。」と言つており、武藤警部及び矢野警部補の取調べの立会人であつた渡辺警察官に対しては、一一月二〇日以降も、取調官が席を外したときに、「私は、本当、やつてないんですけどね。」と言つており、甲野に迷惑をかけられないということも言つていた。渡辺警察官は、原告が東京拘置所に移監された後本件放火を否認しているという話を聞いて、原告に対し、「自分の罪に対しては積極的な姿勢で望まないと駄目でしよう。非常に難しい問題ですが、決して自分を捨てないで頑張つて欲しい。」との文面の、自分がやつていないならそういつてがんばれという趣旨のはがきを出した。

(九) 原告は、昭和四八年一一月二一日、ポリグラフ検査を受けたとき、質問の途中で、検査技師から、本当に火をつけたのかと確認されたのに対し、つけていないと否認しながら、人生どうでもいいんだというような態度で、「自分の立場はどうでもいいんだ。」「私は、放火犯人にならなければしようがない事情があるんです。」と答えた。

(一〇) 原告は、ポリグラフ検査の検査技師に対しては右のように否認したが、その直後の武藤警部の取調べになると自白した。

原告は、昭和四八年一一月二六日の、本件放火の被疑事実による検察官送致後の小林検察官の取調べに際し、「私は学校に火をつけて火事にした記憶はありません。その火事の頃は私は酒を飲んで酔払つて私のアパートの自分の部屋に居りました。」と明確に否認したが、その直後の矢野警部補の取調べでは自白し、同日の警察官に対する供述調書には、「私は本日検事さんに調べられ、事件を否認したということですがそれは私の言い方が悪いので別に否認しておりません。ただ酒をのんでいたので思い出せないことがあるので今后よく思い出して話しますと言おうと思つていたのです。ですから放火をしてないとは言いません」との記載がある。

更に、原告は、同月二七日の裁判官の勾留質問に際しては、「自分としては学校に行つたことと放火したことはまつたく覚えがありません」と明確に否認したが、翌日の矢野警部補の取調べでは自白し、同日の供述調書には、再び、「先日も(一一月二六日)申しあげたように私は放火をしたことについては否定したりしません。只今も申しあげたように(当夜酒を多量にのんでいたので)思い出せないことがあつたからです」との記載がある。

右のとおり、原告は、長年援助を受け自己と同性愛関係にある人間国宝の甲野にだけは迷惑をかけたくないという思いを持つており、甲野が参考人として取調べを受けるなどして、原告と甲野の同性愛関係が甲野の妻や報道機関等に知られ、そのため、甲野の家庭の平和やその社会的地位、名誉に傷がつくことを極度に恐れていたこと、武藤警部及び矢野警部補は、原告と甲野との同性愛関係を事前に知つていたのみならず、原告の取調べによつて原告が右のような思いを持つていることを知つていたこと、原告が、武藤警部及び矢野警部補以外の者には、一旦自白した後も、否認したり自己の無実を訴えることがあつたにもかかわらず、右両取調官の前では、否認したことを弁解して自白に転じ自白を続けていること、更に、2で認定した誘導の事実を併せ考えると武藤警部及び矢野警部補は、原告の供述次第では、原告と特殊な関係にある甲野を取調べることがある旨折にふれて示唆し、原告に自白するよう心理的強制を加えたものと推認することができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

4武藤警部が原告に対し「君は学校の中で見られたんだよ。」と言つて取り調べたことがあることは、原告と被告東京都との間において争いがないところ、右争いのない事実、<証拠>によれば、武藤警部は、小倉供述をもとに、原告の取調べを始めた昭和四八年一一月一三日から、連日、「学校内で君は見られたんだよ。」と言つて、本件放火当夜は酒に酔つて家で寝ていたという原告を追及したこと、その結果、同月一五日には、原告は、自分は学校へ行つた記憶がないから「夢の中で歩いて行つたか」「無意識に出て無意識にもどつたということになる、そんな病気が自分にあるのかな」「梅毒にかかつたかで頭がおかしくなつてしまつたか」と何年か前にかかつたかもしれない梅毒が脳にまで及んだのかななどと言うようになつたこと、そのため原告は梅毒の検査を強く希望し、同月二二日、小原病院で梅毒の検査をしてもらつたが、結果は陰性で異常はなかつたこと、武藤警部は、同月一五日には、「君は見られたんだよ。」と言つて追及するのみではなく、小倉が放火後原告を見たものと誤解していたこともあつて、「学校の中で見た者がいる、道路の野次馬の中に居たのを見た人がいる、どつちかで見られてるんだよ」とか「学校の中で見られたとすれば、その人は誰だと思うか。」「火事のことは後にして、見られた場所は校舎の中、校庭と分けてどこで見られたと思うか。」と質問し、原告に、想像で「校庭」と答えさせ、同月一六日にも、「学校で人に顔を見られたということを前提にして考える」と言わせ、仮定による供述を求めたことが認められ、<証拠>中右認定に反する部分は前顕証拠に照らしてたやすく措信することはできず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定事実によれば、武藤警部は、原告の学校へ行つたとの供述を引き出すため、小倉供述をもとに、原告をして脳梅毒にかかつたのかと思わせるほどの、限度を越えた執拗な追及をしたものと推認することができる。

5原告の痔疾の苦痛を利用した自白の強制、拷問の有無について、検討する。

<証拠>によれば、次の各事実が認められ、<証拠>中、この認定に反する部分は、右各証拠に照らして信用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 原告には痔疾の持病があつたが、昭和四八年一一月一二日の逮捕後一晩でこれが悪化し、翌一三日には、窃盗関係の取調べを担当していた内田警察官に対し、痔の痛みを訴えた。これをきいた内田警察官は、妻に座蒲団を作らせて原告に使用させたり、「痛かつたら横になつてもよいから」と言つて取調べをした。

(二) 矢野警部補は、同月一五、六日ころ、内田警察官から、原告が痔の痛みを訴えていると聞き、原告の痔疾を知つた。

(三) 武藤警部は、同月一八日ころ、原告から初めて痔の痛みを訴えられ、原告は、そのころ、痛いと言つて立つたりしたことがあつた。

武藤警部は、これに対し、自分の痔の薬を持つてきて原告に与えたり、椅子を二個並べて、「楽な姿勢で取調べを受けてもよい」と言つた。

(四) 原告は、同月一九日ころから、痔の痛みのため便通がなくなり、痛みも激しくなつてきたので、武藤警部は、同月二二日、矢野警部補に原告の取調べを引き継ぐ際、原告の痔疾を医者に診察させるよう指示した。

原告は、同日、小原病院で診察を受けたが、原告の症状は、中程度の内痔核と脱肛と診断され、脱肛は長時間椅子に座つていて入らなくなると相当痛むが常時痛むことはない、内痔核、脱肛とも直ちに手術する必要はないということで、一週間分の座薬を投与された。

(五) 同月一三日から同月二一日までの間、原告が留置場から出て取調べなどで椅子に座つていたおおよその時間は、一三日、一一時間、一四日、一二時間、一五日、一二時間三〇分、一六日、一二時間、一七日、八時間、一八日、九時間、一九日、四時間、二〇日、一〇時間三〇分、二一日、九時間で、うち、本件放火の取調時間は前記取調時間表のとおりであり、区検察庁に単独押送のあつた一四日、一九日及び二一日を除いては、朝から連続であつた。

(六) 同月二三日以降、原告の痔疾の症状に改善は見られず、むしろ、傷に菌が感染して肛門周囲膿瘍を併発し、二六日ころからはその痛みがひどくなり、二八日ころからは、びつこをひきながら歩くようになつた。

(七) 原告は、同月二九日、小原病院で再び診察を受けたが、原告が肛門周囲膿瘍を併発し、痛みが相当ひどく、薬では直らないため、医師は、手術が必要であると診断した。

(八) 手術の前ころ、原告の患部を見た内田警察官は、「これはひどい、座つていられるものじやない」と言つた。

(九) 同月二三日から同月二八日までの間、原告が留置場から出て取調べなどで椅子に座つていたおおよその時間は、二三日、一〇時間、二四日、七時間、二五日、八時間、二六日、一〇時間三〇分、二七日、九時間、二八日、八時間で、うち、矢野警部補が原告を本件放火について取調べたのは、二三日の一〇時間、二四日のうち四時間、二五日の八時間、二六日のうち三時間、二八日の八時間であつた。

更に、原告は、同年一二月一日から同月一五日午前一一時までは、勾留の執行を停止され、この間小原病院に入院して肛門周囲膿瘍の手術を受けたことは、原告と被告東京都との間において争いがない。

右事実によれば、武藤警部及び矢野警部補は、原告の痔疾等による痛みを知りながら、他に窃盗関係の取調べも受けているのにほぼ連日にわたり、かなり長時間にわたつて本件放火の取調べをしたものということができる。したがつて、二度にわたつて医師の診察を受けさせたことを考慮しても、なお、取調べにおいて原告の肉体的苦痛を軽視したものといわざるをえない。

6以上の2ないし5の事実を総合すれば、武藤警部及び矢野警部補は、原告に対し、原告がこの人にだけは迷惑をかけたくないと思つている甲野を取調べる旨の示唆による心理的強制を加え、精神異常をきたしたのかと思わせるほど執拗に追及し、痔の痛みを訴えているのに長時間椅子に座らせて取り調べるという痔疾による肉体的苦痛を軽視した取調べをし本件放火の実行行為及びそれに接着する行為全般にわたつて甚だしい誘導により、自白を強要し、かつ自白を維持させたものであるから、右は、脅迫、拷問とまではいえないが、取調方法として許される限度を越えた取調べをしたものとして、違法行為にあたるといわざるをえない。

七ポリグラフ検査鑑定書不送付の違法性の有無

捜査当局が昭和四八年一一月二一日実施したポリグラフ検査の鑑定書を検察庁に直ちに送付しなかつたことは、原告と被告東京都との間において争いがなく、<証拠>によれば、右鑑定書は、同年一二月一一日には作成されたことが認められるにもかかわらず、<証拠>によれば、右鑑定書は、本件放火事件が起訴された後、原告及びその弁護人の要望を容れた第一審の裁判所の示唆により、検察官が調査した結果、未だ捜査当局の手許にあることが判明し、起訴後約半年を経た公判(昭和四九年六月ころ)において、初めて検察官から提出されるに至つたことが認められ、<証拠>によれば、小林検察官は、捜査当局から、右ポリグラフ検査について何ら聞いていなかつたことが認められる。

刑事訴訟法二〇三条一項によれば、司法警察員は、逮捕状により被疑者を逮捕したときは、「留置の必要があると思料するときは被疑者が身体を拘束された時から四十八時間以内に書類及び証拠物とともにこれを検察官に送致する手続をしなければならない。」と規定され、同法二四六条によれば、「司法警察員は、犯罪の捜査をしたときは、この法律に特別の定のある場合を除いては、速やかに書類及び証拠物とともに事件を検察官に送致しなければならない。」と事件送致の原則が定められているところ、捜査当局は、右規定の趣旨からすれば、逮捕した被疑者を書類及び証拠物とともに検察官に送致した後の捜査によつて得た書類及び証拠物も、速やかに検察官に送致しなければならないというべきであり、犯罪捜査規範においても、「事件の送致または送付後において、新たな証拠物その他の資料を入手したときは、すみやかにこれを追送しなければならない。」と定められているところである。

そうすると、捜査当局がポリグラフ検査鑑定書を裁判所の示唆によつて公判担当の検察官が調査するまで検察庁に対し送致せず、しかも、当該捜査を担当した検察官にもその存在を知らせていなかつたというのは、前記刑事訴訟法の規定の趣旨に反するといわざるをえない。のみならず、<証拠>によれば、鑑定書の鑑定所見は、「本検査では、自供内容に関連した質問に強い精神的動揺が認められたため、被疑者が本件の内容を認識しているかどうかについては、判定することができない。」と記載されていることが認められるが、同じく<証拠>によれば、鑑定書を見れば、原告が、放火場所、方法等につき、ことごとく真相と異る回答をしていたこと、一一一番教室の放火の媒介物であるトイレットペーパーにつき、「刑事の話ではそうだと聞きました」とことさらに答えていることが判明したことが認められるから、右鑑定書が速やかに検察庁に送付されたとすれば、検察官に、原告の自白の信ぴよう性につき疑いを抱かせた可能性があることが推認できる。

したがつて、捜査当局がポリグラフ検査鑑定書を検察庁に対し直ちに送付しなかつたことは、原告に対する違法な職務行為となるということができる。

八原告の入院中の身柄拘束の有無

原告が昭和四八年一二月一日から一五日間勾留執行停止決定を得て小原病院に入院していたことは、原告と被告東京都との間において争いがなく、<証拠>によれば、右期間中、昼夜交替で警察官一名が原告の病室に控えていたことが認められる。<証拠>によれば、捜査当局は、万が一の逃走の危惧もあつて原告の病室を個室とするようにしたことが認められ、本件全証拠によるも、入院期間中の原告の病状、手術の程度が、右期間中の継続的な二四時間の付添いが必要であるほどであつたと認めるに足りる証拠はないから、警察官が病室に在室していた目的は原告の監視が主たる目的であつたと推認せざるをえない。

しかし、原告は、手術、治療を受けるため病院に入院し、入院期間中は、右目的のため、いわば、病室にとどまる必要があつたのであるから、警察官が監視のために在室したことをもつて、原告の身柄を拘束したということはできない。

九以上のとおり、武藤警部及び矢野警部補の取調べ、並びにポリグラフ検査鑑定書の不送付は、警察官の違法な職務行為ということができる。

武藤警部、矢野警部補ほか本件放火事件の捜査にあたつた警察官がいずれも被告東京都に任用されていた地方公務員であることは、原告と被告東京都との間において争いがないから、被告東京都は、警察官の右違法な職務行為につき原告の被つた損害を賠償すべき責任がある。

第三  検察官の違法な職務行為の有無について

一検察官による警察官に対する自白強制の示唆の有無

1小林検察官が昭和四八年一一月二六日本件放火の被疑事実で送致された原告を初めて取り調べたこと、その際、原告は放火の事実を否認したこと、右取調べの後、小林検察官が担当の警察官に電話で「早晩自白をするのではないかと思われるから自白した場合には裏付捜査をよくやるように」と指示したことは、原告と被告国との間において争いがない。

<証拠>によれば、小林検察官のもとには、右送致当時、放火前校内で原告を見たという小倉の供述調書、小倉が原告を見たといつていたという川内の供述調書、原告の警察官に対する自白の供述調書などが送付されていたことが認められるから、右各資料から、小林検察官が、原告の否認の供述にもかかわらず、原告に対し本件放火の嫌疑を抱いたこと自体は、相当な理由があるものというべきである。

また、前記指示は、警察官に対し、原告の自白の裏付捜査を十分行うように指示したもので、原告から自白を得よとの意味の指示と解することはできないから、右をもつて自白の強制を示唆したものと認めることはできず、他に、警察官に対する自白強制の示唆を認めるに足りる証拠はない。

2昭和四八年一一月二六日の小林検察官による取調べの後に作成された原告の矢野警部補に対する同日付供述調書中には、「私は、本日検事さんに取調べられ、事件を否認したということですが、それは私の言い方が悪いので、別に否認したりしません。」との記載があることは原告と被告国との間において争いがない。

右記載は、はなはだ奇妙で常識では理解できないような記載といわざるをえず、<証拠>によれば、小林検察官は、後日、原告の右供述調書が送致されてきたとき、右記載を読んで、矢野警部補に対し、「余計なことをするな。」と非難したこと、そのように非難した理由は、右記載が、自然にありのままの事実が述べられているような内容ではないと判断したからであることが認められる。また、実際、矢野警部補の取調べに際しては、原告に対し、心理的強制、誘導等が加えられていたことは前記認定のとおりである。

そうすると、小林検察官は、矢野警部補の工作が明らかであつた部分については、それに気付き、注意を与えたことが認められる。

しかし、それ以上に、前記記載のみから、直ちに、矢野警部補の取調べが全体的に違法なものである又は違法な疑いがあるとまで判断することはできないものといわざるをえないから、小林検察官が、右注意のほか、全く独自の捜査を始めなかつたからといつて違法ということはできず、警察官の違法な取調べを継続させたということもでぎない

二検察官の取調方法自体の違法性の有無

1<証拠>によれば、小林検察官は、昭和四八年一一月二六日のほか、同月三〇日、同年一二月二二日、同月二五日、同月二六日に原告を取り調べたこと、同年一一月三〇日以降の取調べに際しては、原告は自白を続けたことが認められる。ところで、矢野警部補が取調べに際し原告に心理的強制を加えたこと及び原告は同月二六日の小林検察官の取調べに際しては本件放火を否認したのに、その日の矢野警部補の取調べでは自白に引き戻されたことは前記認定のとおりであり、<証拠>によれば、矢野警部補は、原告が警察官の取調べを受ける前に、「私に述べたことを言えばよい」と言つたこと、検察庁の取調べ室では常に二人の押送の警察官が付き添つていたこと、検察官に対する供述調書の記載内容は、小林検察官が動機等主観面に重点を置いて取り調べたため、放火の動機の記載は、警察官に対する供述調書の記載内容より要領よくまとまつた記載となつているが、個々の内容自体は警察官に対する供述調書中から拾い出したものであり、実行行為等の客観面の記載は警察官に対する供述調書の記載内容と比べて簡単に記載されているほか大綱は全く同じものであること、小林検察官は、昭和四八年一二月二五日に、原告に、放火前後の行動について図面を書かせる際、矢野警部補に対する同月二二日付供述調書に添付されていた原告作成の図面を見せたことが認められる。右事実によれば、原告は、小林検察官に対し、いまだ矢野警部補の心理的強制のもとに、警察官に対すると同じ供述を繰り返していたものと推認することができるから、小林検察官が、原告のこの供述を調書にとつたからといつて、これを検察官にとつて違法な調書作成ということはできない。

また、同じく右事実によれば、小林検察官が、原告の警察官に対する供述調書を参考に、原告の供述を聞き調書を作成したと推認することができるが、これをもつて、原告の警察官に対する供述調書の矛盾点をほどほどに手直しし、もつともらしく自白調書を作り上げたということはできず、他に、右のような事実を認めるに足りる証拠はない。

2原告が昭和四八年一一月三〇日には肛門周囲膿瘍により相当ひどい痛みがあつたこと、翌日から小原病院に入院したことは前記認定のとおりであるが、<証拠>によれば、小林検察官は、警察官から、同月二九日に、肛門周囲膿瘍の手術のため原告を入院させる必要があると連絡を受けたこと、同月三〇日に、小林検察官は、原告の状態を自分の目でも確かめるためと同月二六日の取調べは勾留を請求するか否かのための簡単な弁解録取にすぎなかつたので勾留執行停止前にもう一度、被疑事実に対する供述を確認するため取り調べたこと、同日の取調べは一時間以内ですませたこと、同日の取調べの初めに小林検察官から具合を尋ねられたとき、原告は一応「大丈夫だ。」と答えたことが認められるから、小林検察官の同日の取調べをもつて拷問又は無理な取調べということはできない。

3その他本件全証拠によるも、小林検察官の取調方法自体に何らかの違法な点があつたと認めるに足りる証拠はない。

三公訴提起の違法性の有無

小倉供述及び原告の自白に信ぴよう性があると判断したことに伴う取調べの違法性は公訴提起の違法性に包含されるので、以下、公訴提起の違法性の有無について検討する。

1刑事事件において無罪の判決が確定したというだけで直ちに公訴の提起、追行が違法となるということはない。けだし、公訴の提起は、検察官が裁判所に対して犯罪の成否、刑罰権の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから、起訴時あるいは公訴追行時における検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解するのが相当であるからである(最高裁昭和四九年(オ)第四一九号同五三年一〇月二〇日判決・民集三二巻七号一三六七頁参照)。

したがつて、右のような有罪と認められる嫌疑がなく、有罪判決を期待しうる合理的な理由がないのに、あえて公訴を提起し、これを追行した場合には、検察官の公訴の提起・追行が違法となるものというべきである。

2<証拠>によれば、公訴提起時における、原告と本件放火の犯行とを直接に結びつける証拠としては、原告の自白を内容とする警察官及び検察官に対する各供述調書、昭和四八年一二月二七日付及び同月三〇日付各実況見分調書の原告の指示説明部分があり、右自白の補強証拠として小倉の警察官及び検察官に対する各供述調書があることが認められる。

そこで、以下、小倉供述、原告の自白の順に、その信ぴよう性等に関する検察官の判断の合理性の有無について検討する。

3<証拠>によれば、小倉は、小林検察官に対し、「昭和四八年一二月二六日午前一時一五分ころ、眠けざましに富士高のグランドに行き、グランドをゆつくり走つている時に体育館の前の所で北校舎の裏庭(北側)に黒つぽい一人の人影を見付けた。それで、不審に思い体育館の西側を回つて様子を見に行き、コンクリート塀の支柱に隠れて、北校舎の裏の方から人影が一人歩いて近づいて来るのを見ていると、近づいて来るにつれてそれが原告であることがわかり、原告がちよつと看護婦寮をうかがうように見た時、その顔を見て相手が原告であるとはつきりわかつた。原告は、その後、立ち止まることもなく、自分が隠れている支柱のそばを通つて、自分のすぐそばを、自分には気が付かなかつたような様子で、ゆつくり歩いて行き、体育館の北側に上かつて西の方へ行つてしまつた。」旨の供述をし、その時の原告の服装については、「えび茶色のような色の、黒か白のような縦縞がはいつたカーディガンのようなものを着て、黒つぽいような色ですそは折り返しのないストレートのズボンをはき、黒つぽいような色の靴下、こげ茶色のようなサンダルであつた」旨の供述をして、小林検察官から、取調室の電気を消したうえで、原告の長袖シャツ、チョッキ、ジーパン、サンダルを示され、原告がこれらを着ていたような気がすると供述したことが認められる。

そこで、右の供述については、その目撃時刻、場所からして、現場の明るさは、人相、服装が判別できるだけの明るさであつたのか、小倉は自分の前を通つた人物を原告とわかるだけの間柄であつたのかがまず問題とならざるをえないところ、<証拠>によれば、昭和四八年一一月二五日午後六時から午後八時三〇分までの間に、小倉を立会人として富士高で行われた実況見分の実況見分調書中には、小倉が初めて人影に気付いたという校庭の、体育館の前の地点から、人影がいたという北校舎の裏庭の地点に人物を立たせて、これを見ると、「佼成病院の電灯、非常口の門灯、佼成病院看護婦寮、本郷通り等の明りが北側校舎に反射した明りや東方新宿方面の空明り等から、顔の識別、性別の判別には至らないが黒く人影が存在することが認められた」との記載、小倉が隠れていたというコンクリート塀(正しくはブロック塀)の支柱の陰の地点から、原告が看護婦寮をうかがつたという地点に人物を立たせて、これを見ると、「顔の判別が明確に出来た」との記載、右支柱の陰の地点から、原告が小倉のそばを通つたという地点の距離を測ると「0.80メートル」であり、「付近は看護婦寮の三・四階から射す明りや、佼成病院等の明りで、人相・服装等の識別が完全に出来得る状況であり、同所において、新聞を拡げたところ、上段の大見出しの字を判読することができた。この時立会人は、「当夜も、寮の明りが何室かついていたので相手の顔がよく判つた」と説明した」との記載があることが認められる(もつとも、<証拠>によれば、刑事第一審の裁判所が昭和四九年七月二六日午後五時一五分から午後七時五〇分までの間に行つた検証によれば、同日午後七時二〇分ころにおける富士高体育館裏ブロック塀の小倉が隠れていたと指示した地点の明るさは、看護婦寮の照明と体育館東側の工事現場の照明がありながら、ブロック塀の南側直近は相当暗く、右裁判所をして、「鼻をつままれてもわからないというような暗さではない」というに近い印象を抱かせるほどの暗さであつたこと、同裁判所によつて、「実況見分時の明るさが、果たして、実況見分調書に記載されているように、「人相・服装等の識別が完全に出来得る状況」であつたのかどうかについては右実況見分とほぼ同一の時刻に行つた当裁判所の検証の結果に照らしても、疑問となるところである」旨指摘されていることが認められ、目撃時刻が夜中の午前一時三〇分ころであるのに警察官による実況見分が行われた時刻は前記認定のとおり午後六時から午後八時三〇分であるから、小林検察官としては、更に目撃時刻と同一時刻における実況見分を警察官に指示又は自ら行つてもよかつたのではないかと思われなくもないが、前記実況見分調書の記載に疑問を生じさせるような点はそれ自体からは認められないから、再度の実況見分をすべき捜査上の義務があつたとまでいうことができない)。

また、小倉と原告の親疎の程度についてみると、<証拠>によれば、小倉は本件放火後川内から教えてもらうまで原告の名前は知らなかつたものの、昭和四八年の夏に水泳のサークルで、四、五回一緒に泳いだことがあり、その時、原告が「前に警察官をやつていたことがある。」と言つていたので、原告を、前に警察官をやつていた人として覚えていたことが認められる。

更に、<証拠>によれば、小倉は二六日午前一時四五分ころ、富士高の校庭から出て川内、岩倉の二人と会い、その後、二人は岩倉のオートバイを取りに行き、午前二時ころ帰つてきて、三人で小倉の下宿に寝たこと、午前二時四〇分ころ、小倉と川内は消防車のサイレンで火事に気付き、火事を見に行つたことを供述しているが、この供述と一致する川内、岩倉の各供述があり、また、火事を見た後、小倉が川内に、「原告を見た。」「原告はめがねをかけていたんじやないかなあ。」と言つたという川内の供述もあつたことが認められ、更に、<証拠>によれば、小倉の供述は、昭和四八年一一月五日の警察官による取調べ、同月二五日の実況見分の際の指示説明、同年一二月二四日の検察官による取調べのそれぞれを比較すると、原告だとはつきりわかつた位置、原告が小倉に気付いたか否か、小倉が「こら」と声をたてたのか否か、カーディガン様のものの色等いくつかの点に変遷があり、その変遷に不自然さは否めないものの、富士高の校庭に入つてから出るまでの行動について大筋は一貫しており、特に同年一一月二四日の指示説明と同年一二月二五日の供述は一致していることが認められる。

なお、<証拠>によれば、小林検察官が念のため調べた小倉の成績は、中程度であつたことが認められる。

したがつて、小倉の供述には、一方で前記指摘のとおり、昭和四八年一一月五日、同月二五日、同年一二月二四日にわたつて不自然さを否めない変遷があり、また、供述の変遷のない部分も、北校舎裏庭の人影の様子を見るため何故体育館の裏のブロック塀(それも体育館敷地の北東角からは離れたところ)に行つたのか、「原告の服装については、はつきりした自信をもつて言える程正確には憶えていない」と言いながら何故カーディガン様のものについて色は「赤つぽいサンゴ色」とか「えび茶色」と複雑な色を言い、ズボンの折り返しの有無、靴下やサンダルの色まで言えるかなどの不自然な点もあるが、右のとおり、体育館の明るさ等につき「人相・服装等の識別が可能」との実況見分調書があり、小倉は原告と顔見知りであるとの事実も認められ、小倉の富士高の校庭外での行動についてこれを裏付ける供述があり、小倉の供述も全体的には一貫しており、小倉の成績に特段問題となる点はなかつたのであるから、小林検察官が小倉の供述に信ぴよう性があり原告の自白を裏付ける有力な証拠たりうると判断したことが合理性を欠いていたということはできない。

4次に、原告の自白(実況見分における指示説明を含む)に任意性及び信ぴよう性があると判断したことについて検討する。

ところで、証人小林久義の証言にもあるとおり、本件放火は深夜から見えない場所で行われており、物的証拠がなく、被疑者と本件犯行とを直接結びつける証拠としては自白しかなかつたのであるから、その自白の信ぴよう性、のみならず任意性について、十分検討する必要があつたことはいうまでもない。

原告の警察官に対する昭和四八年一一月二〇日から同年一二月二二日までの本件放火に関する供述には、第二の六2(一)及び(二)で認定したとおりの、放火の実行行為及びそれに接着する行為についての度重なる変遷があり、<証拠>によれば、小林検察官は、原告の警察官に対する供述調書を検討したことが認められるから右変遷にも当然すべて気がついているものと推認できる。

しかし、一般的に、被疑者の供述に前後変遷があること自体は、しばしばみられる現象であつて、異常なこととはいえないし、小林検察官のもとには、原告の自白の内容と一致する、たとえば、昭和四八年一〇月二六日に行われた実況見分調書、高橋正和、山田邦彦らの供述調書は送致されていても、原告の自白の変遷に先立つてあつたところの取調官側の認識の変化を認める又は疑わせるに足りる資料はなかつたのであるから、原告の自白の度重なる変遷があつたとしても、そのことのみから取調官側の誘導、自白の強制を疑わなかつたことが不合理とまではいいがたい。

<証拠>によれば、小林検察官に対し、原告から、警察官に甲野との関係を利用して自白を強制された等の申出やそれをほのめかす言動もなかつたことが認められ(前記認定のとおり、原告は、小林検察官の前においても、矢野警部補の心理的強制のもとにあつたため、右のようなことを言い出せなかつたからではあるが)、前記認定のとおり、小林検察官は原告のポリグラフ検査について一切聞いていないから、原告とポリグラフ検査技師とのやりとり、検査後の取調べの際の武藤警部の言動等を知らなかつたのであり、また、<証拠>によれば、一番最初の取調べの際、小林検察官が、原告から、警察官に、「火事のすぐ前に学校で君を見た人がいる。」「君が火をつけるならどのようにするか。」と言われたということを聞いたことが認められるが、警察官が右のように言つて問い質すこと自体は、直ちには自白の強制を疑わせる事由とならないし、原告が梅毒の検査をしたこと、した理由を小林検察官が当時知つていたと認めるに足りる証拠はない。更に、小林検察官は、原告が肛門周囲膿瘍で手術を必要とする状態にあつたことは認識していたが、それは、警察官から、医師の診察を受けさせたところ、医師から入院させて手術を受けさせる必要があると言われたので、勾留の執行を停止した方がよいとの、原告の疾病に対して適切な対応をするための報告によるものであり、<証拠>によれば、原告自身からは、一一月二六日にも、三〇日にも、「痛くてどうしようもない。」などの訴えは聞いていなかつたことが認められる。

小林検察官の取調方法自体に違法な点があつたと認めるに足りる証拠がないことは前示のとおりである。

したがつて、原告の当初の自白、否認のくり返し、警察官に対する自白の度重なる変遷を考慮すれば、原告の自白の任意性につき疑いを抱く契機が全くなかつたとはいえないが、公訴提起時において、小林検察官が、自白の任意性を疑わず、任意性があると判断したことが合理性を欠いていたとまではいうことができない。

そこで、信ぴよう性についてみるに、原告の警察官に対する自白には、放火の実行行為及びそれに接着する行為について度重なる変遷があつたが、右自白の内容は、最終的には、捜査当局及び検察官が把握していた客観的事実と一致しており、<証拠>によれば、動機についての供述は、時を追つて詳しくなつているが前後矛盾するようなことはないことが認められ、その内容も不合理とはいえないものであるといつてよい。

また、原告は、昭和四八年一一月三〇日以降、小林検察官の前では否認の態度を全くとらず、前記のとおり、自白の任意性あるいは警察官による誘導を疑わせる契機が原告の自白の変遷以外になかつた点をも併せて考えると、公訴提起時において、小林検察官が、原告の自白に信ぴよう性があると判断したことが合理性を欠くということもできない。

なお、小林検察官が、原告の自白には、当時未だ捜査官の探知していなかつた事実で、その後の捜査によつて、裏付けられた事実があると判断したとの点についてみるに、まず、化学準備室前廊下の放火の媒介物について、原告が、昭和四八年一一月二三日にはすでに「自分の教室内の参考書二、三冊」を持ち出したと供述しており、その後の捜査で、河野雅彦という生徒が、同教室内で、同年一〇月二三日から同月二九日までの間に、参考書一冊を紛失したという供述が得られたことは前記認定のとおりであるところ、<証拠>によれば、原告の警察官に対する同年一二月一六日付供述調書の末尾に添付された「定時制一年A組教室見取図」と河野雅彦の警察官に対する同年一一月三〇日付供述調書の末尾に添付された「普段の時の座席一―G(定時制一―A)」との図面とを対比しつつ原告と河野雅彦の供述を検討するときは、原告の供述が後に河野雅彦の供述によつて客観的真実であることが確認されたと判断することもできることが認められる。もつとも原告及び河野雅彦の供述をし細に検討するときは、化学準備室前廊下の放火の媒介物としての参考書の存在した位置について、原告の供述と河野雅彦の供述とが一致しているとはいえないので完全に裏づけられたとはいえないが、同じ教室内の机の中に参考書が一冊存在したことが裏付けられたと判断することも一応理由がないこととはいえない。

次に、校舎内への侵入口である北側廊下の窓のクレセント錠の施錠の有無について、<証拠>によれば、原告が、昭和四八年一一月二〇日から、一一一番教室前北側廊下の窓から校舎内に侵入したと供述していたことが認められ(右の窓は、正しくは、一一一番教室前というよりその隣りの便所前というべきであり、<証拠>によれば、同月二八日には、同じ窓を「便所の前あたり」と訂正したことが認められる)、その後の捜査によつて、右窓のクレセント錠が無施錠であつたと確認されたというところ、<証拠>によれば、刑事第一審の第二回公判において金沢安憲に示した写真(消防士が一一一番教室及び便所前北側廊下の窓の状況を消火活動時に外から撮影した写真)では、右窓の無施錠は確認できないこと、警察官は右写真によつて窓の無施錠は確認できると軽信していたが、小林検察官は、右写真では無施錠の直接の証拠たりえないと考えていたことが認められ、また、<証拠>によれば、小林検察官は、警察官に対し、同年一二月二七日、侵入口である窓の施錠をはずした事実の有無について消防士、警備員に確かめるように指示したところ、警察官からは、消防士の舟久保好幸、中島裕志、警備員の神通忠に確かめたが、いずれも右窓の施錠の開閉をした事実がないことが判明したとの返事があつたこと、右三名の警察官に対する同日付の調書には、いずれも、「私自身、便所前北側廊下の窓をあけたりしめたりはしていません」との記載があることが認められるが、すすんで、舟久保好幸、中島裕志及び神通忠の右供述調書が、原告が校舎内に侵入した当時侵入したという便所前北側廊下の窓のクレセント錠が無施錠であつたと認めるに足りる的確な証拠とはいえないことが認められる。そうすると、侵入口である窓の無施錠について原告の供述が舟久保好幸、中島裕志及び神通忠の各供述によつて完全に裏付けられたとみることは困難であり、施錠されていたとの証拠はなかつたという消極的な裏付けができたにとどまるといわざるをえない。

右のとおり、小林検察官が、原告の自白に秘密の暴露があり、完全に裏付けられたと判断したとすれば、それは適切な判断であつたとはいえないが、一応の裏付けがあると判断することはできると考えられるから、前記認定の状況のもとで小林検察官が、原告の自白に信ぴよう性があると判断したこと自体は、合理性を欠く判断とはいえない。

5以上のとおり、小倉の供述には信ぴよう性があり、原告の自白には任意性及び信ぴよう性があるとの小林検察官の判断は合理性を欠くものとはいえず、小倉の供述に信ぴよう性を認め、原告の自白に任意性及び信ぴよう性を認める限りは、その余の証拠と相まつて、原告には、有罪と認められるだけの嫌疑があり、有罪判決を期待しうる合理的な理由があつたということができるから、本件放火の公訴事実による公訴の提起が違法であつたということはできない。

6なお、前記3及び4において認定判断したところに照らし、警察官が小倉供述及び原告の自白に信ぴよう性があると判断したことを前提とする取調べにも違法な点はなかつたということができる。

四刑事第一審公判追行の違法性の有無

<証拠>を総合すれば、刑事第一審の審理経過について次の各事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

1検察官は、原告を本件放火前校内で見たとの内容の、小倉の警察官に対する供述調書及び検察官に対する供述調書の取調べを請求したが、不同意となつたので、小倉が証人として尋問され、おおむね検察官に対する供述と同旨の供述をしたが、裁判長の「すれちがつたときに見たとき、被告人(原告)だつたということが記憶としてはつきりしているかどうかということだが。」との質問に対しては、「自信はないけれど……」「僕はそのときは、その人が眼鏡をとつていたので判らなかつたのですが、プールで泳いだあのとき聞いた警察官の人ではないかと思つたのです。」と供述し、すれちがつた男の着衣等に関しては、「最初は判んないと言つたのですが、どうしても思い出してくれと言われたのです。」などとも供述した。

また、小倉が原告が本件放火前校内で見たと言つていたとの内容の、川内の警察官に対する供述調書も不同意となり、川内が証人として尋問され、概略警察官に対する供述と同旨の供述をしたが、川内の供述内容はかなりあいまいであつた。

2裁判所は、昭和四九年七月二六日午後五時一五分から午後七時五〇分まで、富士高校舎及びグランド付近一帯の検証を行つたが、その際の体育館裏ブロック塀の小倉が隠れていたと指示した地点の明るさは、看護婦寮の照明と体育館側の工事現場の照明がありながら、ブロック塀の南側直近は相当暗く、裁判所をして、「鼻をつままれてもわからないというような暗さではないが暗い」というに近い印象を抱かせるほどで、「人相・服装等の識別が完全に出来得る状況」ではなかつた。

3原告は、公判において、終始本件放火を否認し、警察官に対する自白について、武藤警部及び矢野警部補から、「甲野の妻子に甲野と原告との関係を話す。」「マスコミ関係に公表する。」「甲野のじじいとばばあを呼んで来る。」などと言われ、脅されて自白したと主張し、弁護人は、原告の警察官及び検察官に対する供述調書について、「捜査当局は、本件放火事件を捜査中、原告に軽い窃盗の嫌疑のあることが判明するや、右窃盗(別件)に籍口して、罪質も異なり、密接な関連性や付随性のない重大犯罪である本件放火(本件)について取り調べ、その自白を得る目的で、原告を逮捕勾留し、現実にも、右別件を利用して長時間、連日強制による取調べをしたのであるから、右はいわゆる違法な別件逮捕にあたり、右別件逮捕勾留中及びそれを前提とした本件の逮捕勾留中に作成された供述調書はすべて証拠能力を否定されるべきである。」と主張し、かつ、右供述調書は、原告が痔疾による激痛に苦しんでいた間に、甲野の家庭、社会的地位を破壊する等と脅迫して作成されたものであるとして、その任意性を争い、信ぴよう性も争つた。

4武藤警部及び矢野警部補は証人として尋問され、原告に対し、甲野との関係を利用して原告主張のような脅迫を加えたり、痔疾の痛みを無視して取り調べたりしたことはないと供述したが、武藤警部は、「捜査ですから、捜査は親でも兄弟でも呼ぶかもしれないということは言つているかも知れません。」と、矢野警部補は、「君と甲野さんとはどういう関係か。君が言わなければ甲野さんを呼んで聞くしかないという形で聞いたのです。」などと供述した。

5武藤警部及び矢野警部補の取調べに立ち会つていた渡辺警察官及び斎藤警察官も、証人として、武藤警部、矢野警部補が原告に対し甲野との関係を利用して原告主張のような脅迫を加えたことはないと供述したが、渡辺警察官は、原告が、取調官が席を外したときには、「私はやつてないんですけどね。」と言つていたこと、渡辺警察官が東京拘置所の原告に出したはがきの意味は自分がやつていないならそういつてがんばれという意味であつたことを供述した。

また、窃盗関係の取調べを担当していた内田警察官は、証人として、原告が本件放火を否認していたこと、一一月一三日から痔疾の痛みを訴えていたことを供述した。

6第一審公判になつて、弁護人の指摘により、原告がポリグラフ検査を受けていたことが判明し、第二の七で認定したとおりの経過で、ポリグラフ検査鑑定書が提出され、同鑑定書の鑑定所見は、「本検査では、自供内容に関連した質問に強い精神的動揺が認められたため、被疑者が本件の内容を認識しているかどうかについては、判定することができない。」となつており、質問表の記載から、原告が、当初、放火場所、方法等につき、ことごとく真相と異なる自白をしていたこと、トイレットペーパーにつき、「刑事の話ではそうだと聞きました」と答えていたことがわかつた。

更にポリグラフ検査技師は、証人として尋問され、検査結果の見方を説明したほか、検査をするに至つた経緯について第二の六2(一)(2)で認定したとおりの事実を、検査中の原告の言動について同3(九)で認定したとおりの事実をそれぞれ供述した。

7原告の痔疾を診察した医師は、証人として尋問され、原告の一一月二二日及び同月二九日の症状について、第二の六5(四)、(七)で認定したとおりの事実を供述した。

8第一審公判の最終段階近くなつて、検察官から、武藤警部が一一月一四日から同月一七日までの原告の取調べの際作成したというメモが最近見つかつたといつて証拠物として提出されたが、同メモ中には、原告が武藤警部の追及に対し、「夢の中で歩いて行つたか」「梅毒にかかつたかで頭がおかしくなつてしまつたか」と答えた旨の記載、武藤警部が原告に対し、「学校の中で見た者がいる、道路の野次馬の中に居たのを見た人がいる、どつちかで見られているんだよ」とか「火事のことは後にして、見られた場所は校舎の中、校庭と分けてどこで見られたと思うか」と言つて追及した旨の記載等があつた。

9小林検察官の取調方法自体については、原告、弁護人は格別非難せず、また、問題となるような証拠はなかつた。

10裁判所は、検察官から証拠調請求のあつた、原告の警察官に対する自白調書及び検察官に対する自白調書について、「別件(四谷見附窃盗)による身柄拘束は、その根拠それ自体を欠くようなものであつたとは認められないが、捜査当局は当初から窃盗についての身柄拘束状態を利用して放火につき取調べを行う意図であり、取調時間の大部分は未だ適法な令状発付のない放火についての取調べにあてられており、取調べにあたつて放火について取調受忍義務のないことを告知した事実がないのみならず、黙秘権や弁護人選任権を告知した事実もうかがわれず、痔疾による苦痛を訴えていた原告に対し、連日長時間にわたる取調べを受けるのやむなきに至らせた」ものであるから、四谷見附窃盗の被疑事件による逮捕勾留中の本件放火の取調べは違法なものというべきであるとして、右期間中に作成された供述調書の証拠能力を否定し、更に、「違法な手続によつて収集された直接の証拠だけでなく、右証拠を前提として収集された証拠にも、原則として右違法は受継されると解するのが相当である」として、本件放火の被疑事実による逮捕勾留中に作成された供述調書についても、警察官に対する供述調書及び検察官に対する一一月三〇日付供述調書の証拠能力を否定し、結局、原告の検察官に対する一二月二二日付、同月二五日付及び同月二六日付(二通)各供述調書のみ採用し、その余の供述調書の取調請求を却下する旨の証拠決定をした。

裁判所は、右決定中において、別件逮捕の問題のほか、「武藤警部及び矢野警部補は、原告が、人間国宝に指定されている甲野太郎と、いわゆるホモの関係にあり、同人の物心両面にわたる長年の援助に原告が深い恩義を感じていて、同人との関係をその家族や社会一般に知られることを極度におそれていることを知つた後においては、同人との関係を公表するかのような言動で原告を心理的に圧迫した疑いが相当濃厚である」等とも指摘して、原告の警察官に対する供述調書の任意性にも、疑問を投げかけた。

11弁護人は、本件放火の真犯人は別にいると主張し、伊藤教諭、堤康一朗等の尋問を求め、証拠物として、本件放火のあつた当夜に紛失したという全日制一年C組の出席簿、堤康一朗が真犯人との会話を録音したものとしてカセットテープ一巻等を提出したが、堤康一朗及びその父である堤敏男は、証人として尋問され、右カセットテープは、康一朗が演劇の練習のため父の敏男を相手に吹き込んだものであると供述した。

右のとおり、刑事第一審の審理の過程において、小倉の警察官に対する供述調書及び検察官に対する供述調書と同旨の供述はあつたものの、右供述の信ぴよう性に疑いを抱かせるような検証の結果もあり、また、原告の警察官及び検察官に対する自白調書については、違法な別件逮捕勾留によつて得られた自白で証拠能力があるか否か及び任意性の有無が争われ、一部を除いてはその証拠能力が否定され、証拠能力が認められたものについてもその信ぴよう性に疑いを抱かせるような警察官、ポリグラフ検査技師らの供述及びポリグラフ検査鑑定書などの証拠も明らかになつた。

しかしながら、一方、小倉供述及び取り調べられた原告の自白調書についてその信ぴよう性が全く失われたものではなく、信ぴよう性を裏付ける証拠も存し、他方、他に真犯人がいるとの決定的な証拠までは提出されていなかつたのであるから、右小倉供述及び原告の自白調書に信ぴよう性が認められる限りは、他の証拠と相まつて、有罪判決を期待しえたというべきであり、検察官が、進んで公訴を取り消したり無罪の論告をしたりすることがなく、事件の最終判断を裁判所に委ねたことをもつて、違法ということはできない。

なお、<証拠>によれば、青柳頼光消防士の警察官に対する供述調書中には、一一二番教室の燃えている窓の西側隣りの窓の鍵がかかつておらず、その窓を開けて教室内にはいつた旨の記載があること、右供述調書は、刑事第一審では提出されなかつたことが認められるが、右窓が真犯人が出入りした窓であると認めるに足りる証拠はなく、これによつて原告の自白の信ぴよう性そのものがゆらぐという証拠でもないので、右不提出をもつて、違法ということはできない。

したがつて、刑事第一審の公判追行が違法であつたとはいえない。

五控訴及び控訴審公判追行の違法性の有無

1刑事第一審の東京地方裁判所が、原告に対し、本件放火の公訴事実につき無罪の判決を言い渡したことは、前記のとおりであり、<証拠>によれば、右裁判所の結論は、「原告が右放火の真犯人であると断ずるまでの確たる心証に到達するには至らず、その間に、なお合理的な疑いをさしはさむ余地があるとの結論に達した」というものであることが認められるが、同じく<証拠>によれば、その理由の要旨は次のとおりであることが認められる。

(一) 小倉供述の信ぴよう性について

小倉が、距離的にこそ男と至近距離ですれちがつたとはいうものの、その場所は、深夜の学校の体育館裏であり、観察の条件ははなはだ劣悪であるのみならず、原告とそれほど親しい間柄ではなかつたのであるから、一瞬すれちがつた他の人物を、原告と見誤つて直感する可能性は必ずしも小さいものではなく、小倉自身も、すれちがつた人物が確実に原告であると断定できるだけの自信はなく、着衣等についての記憶も、それほど確たる自信に裏付けられたものではなかつたところ、小倉は、自分自身が本件放火犯人と疑われていると思つて、自己保身の必要から、さして自信の持てない人物の特定について、断定的な調子で捜査官に供述したものであるから、小倉供述は、少なくとも、同人が体育館裏ですれちがつた人物が原告であつたとの部分に関する限り、必ずしも高度の信ぴよう性を有するものとは即断できない。

(二) 原告の自白調書の信ぴよう性について

裁判所が採用した原告の検察官に対する自白調書について、右調書作成時の検察官の取調方法に、格別非難されるべき点はないが、原告は、それ以前に、警察官に対し詳細な自白をしているので、右自白が警察官による違法不当な取調べによつて得られたものであるとすると、これを前提としてなされた検察官に対する自白の信ぴよう性についても、多大の疑問を抱かざるを得なくなるところ、警察における取調べの過程には、甲野との関係の公表等を理由とする不当な心理的圧迫等が加えられた疑いが強い。

原告の供述の経過をみると、再三、再四全面的な否認と自白をくり返している。

自白の信ぴよう性を客観的に担保すべき秘密の暴露がない。

原告の自白にあらわれた放火の動機は、学校放火という重大な犯行を行う動機としては、いささか薄弱である。

自白の内容に、枚挙にいとまがないほど、重要な点で前後あい矛盾し、くり返し訂正が行われている部分があり、しかも、右供述の変化は、単なる記憶の混乱や誤りではなく、原告が心当りのない事実について、想像したり、取調官の誘導に乗つて迎合的な供述をくり返したために生じたのではないかとの疑いを払拭し切れない。

自白の内容には、放火後しばらく校内に止まつたと自白しながら、非常ベルを聞いたとの部分が全くないなど種々の不合理な点がある。

以上の各点から、原告の検察官に対する自白の信ぴよう性については、多大の疑問がある。

(三) 昭和四八年一二月二七日付及び同月三〇日付各実況見分調書の原告の指示説明部分については、証拠能力の点で原告の警察官に対する自白調書と同様の問題があり、信ぴよう性にも(二)同様の問題がある。

ポリグラフ検査の結果は、検査技師の供述と併せて理解すると、原告が犯人であることをうかがわせる資料とならないのみならず、原告の自白の信ぴよう性に重大な疑問を提起するものである。

2<証拠>によれば、検察官は、右第一審の判決に対し、一審判決が小倉供述の信ぴよう性をことさらに排斥し、原告の検察官に対する自白調書四通の信ぴよう性及び実況見分時における原告の指示説明の信ぴよう性をも排斥して原告を無罪としたのは、証拠の取捨選択とその評価を誤りその結果事実を誤認し原告を無罪としたものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるうえ、裁判所として当然証拠能力を認めるべきであり、これを認めれば本件放火の公訴事実を一層容易に認定できるはずの原告の警察官に対する自白調書の全部及び原告の検察官に対する自白調書の一部を証拠能力を有しないとして却下したのは訴訟手続の法令違反を犯し、その法令違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるとして控訴を申し立てたものであること、その控訴理由の要旨は次のとおりであることが認められる。

(一) 小倉供述の信ぴよう性について

当時小倉が男を目撃した場所は、相手方を十分視認し得る明るさを有していたところであり、小倉は至近距離で、かつ、意識的に相手方を観察したものであるばかりか、原告が他の一般高校生よりはるかに年長者でかねて元警察官をしていた旨名乗つていたことなどから、原告に関心を抱き十分な面識を有していたものであるから、他の人物を原告と見誤る可能性はなく、したがつて、小倉は目撃した相手が原告であると断定できる確信をもつていた。また小倉が自己に対する嫌疑を他に転嫁する必要性もなかつたのであるから、小倉供述は信用することができる。

(二) 原告の自白の信ぴよう性について

警察官の取調べが検察官に対する自白の信ぴよう性に影響すると断定するのは、検察官の取調べの自主性、自白の独立性を無視している。

警察官が甲野との関係を公表する等と言つて自白を強制することはありえないし、この点に関する原告の弁解は、あいまいで、前後矛盾しており措信できない。

原告の自白と否認のくり返しは、原告が完全な自白を逡巡した心理的動揺の中における、いわゆる「半割れ」状態の時期のものであるから、これをもつて自白の信ぴよう性を疑うことはできない。

原告の自白には、化学準備室前廊下の放火の媒介物及び侵入口である窓の施錠の有無について秘密の暴露があり、他にも捜査官の不当な誘導がなかつたことを推認させるに足る真実性のある供述が存在する。

放火の動機に関する自白は、詳細かつ具体的で不自然さがなく、原告の経歴、環境、異常性格を加味して考えると信ぴよう性は高い。

自白の内容の変遷は、事実に反し又はあいまいな供述をしていたのが、その後の取調べの過程で順次、補訂され、明確化されていつたものにすぎない。

原判決が自白の内容中不合理な点とするものは、原告の異常性格、放火犯人の異常心理を無視している。

(三) 実況見分時における原告の指示説明の信ぴよう性

昭和四八年一二月二一日実施の実況見分(同月三〇日付実況見分調書)は、それまで放火事件の捜査を担当していなかつた内田警察官が実況見分者となつて行い、指示説明の任意性を疑わせるような事実は全くなく、また、同月二四日実施の実況見分(同月二七日付実況見分調書)とも、勾留執行停止期間満了後、原告の心身の安定が回復した状況の下で、体験者でなければなしえないことを極めて自然な態度で示したもので、信ぴよう性に欠けるところはない。

(四) 証拠決定について

前記四10記載の証拠決定の見解は、従前の最高裁判所及び高等裁判所の判例に反しており、それ自体としても不合理なものであり、右従前の判例の基準に照らすと、本件の場合、別件逮捕勾留中の本件の取調べに何ら違法視されるべき点はない。

したがつて、右証拠決定によつて却下されたいずれの供述調書にも証拠能力はある。

3<証拠>を総合すれば、刑事控訴審の審理経過について次の各事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 裁判所は、昭和五一年一〇月二三日午前零時一〇分から午前三時五〇分まで、富士高校舎及びその周辺一帯の検証を行つたが、小倉が初めて人影に気付いたという校庭の体育館の前の地点から、人影がいたという北校舎の裏庭の地点に人物を立たせて、これを見ると、「人物が存在するか否か明らかでなかつた。」更に、「右人物を、立たせた点を中心にして南北方向に数回往復歩行させ、これを体育館の前の地歩からじつと目をこらして暫く見たところ、なにか黒つぽいものが動いていることが認識できたが、それがはつきりと人間であるとまではわからなかつた。」小倉が隠れていたというブロック塀の支柱の陰の地点から、原告が看護婦寮をうかがつたという地点に薄茶色の背広を着用した人物を立たせて、これを見ると、「人物が男性であること、着衣が背広であること、背丈、身体つきなどはわかつたが、人物の人相、着衣の色までは、明確ではなかつた。」右支柱の陰の地点から、原告が小倉のそばを通つたという地点に立たせた人物を見ると、「人物の人相、服装の薄茶色の感じなどがわかつた。」なお、右の原告が小倉のそばを通つたという地点では、「真北にあたる看護婦寮の電灯の明りなどが、反射して、右地点の人物に薄い光線が当たり、ほの白く浮かび上つたとも考えられるので、桜の枝葉によつて明りがさえぎられ、そのような明りの影響を受けていないと思われる所で、支柱の陰の地点とそばを通つたという地点との間と同じ距離間隔で実験したところ、先の点ほど明らかではないか、八〇センチメートル離れた人物の人相、着衣の色の濃淡などは識別できた。」

(二) 右検証の後、小倉が、証人として尋問されたが、その際、同人は、「校庭で運動中に、北校舎裏に人影を見たというのは嘘である。真実は、校庭でランニング中に、高校の北側にある佼成病院看護婦寮をのぞいて見たくなり、体育館裏へ回り、ブロック塀の陰から寮の方をのぞいていたところ、東方から人影が近づいて来るのが気配と足音でわかつた。それで、向き直つて、人影の方を見ていると、人影は一瞬立ち止まり、看護婦寮の方を見た。そのとき、その人物が原告らしいと感じた。その人影は、すぐまた歩き出し、私の立つている前を、腕を伸ばせば届くくらいの距離を置いて通り過ぎたが、その時、その人影が原告であるとはつきりわかつた。」旨の供述をした。

(三) 控訴審においても、武藤警部及び矢野警部補が、重点的に、証人として尋問されたが、第一審の際の供述とおおむね同じ内容を詳しく述べたにすぎず、第一審の際よりも、右供述によつて、本件放火の内容に関する取調官側の認識の変化が明らかとなつた。

4刑事控訴審の東京高等裁判所が検察官の控訴を棄却する旨の判決を言い渡したことは、前記のとおりであり、<証拠>によれば、右裁判所の結論は、「原判決に所論の事実誤認及び訴訟手続の法令違反はいずれも認められず、論旨はすべて理由がない」というものであつたが、その理由の要旨は次のとおりであることが認められる。

(一) 小倉供述の信ぴよう性について

小倉の第一審供述は、ランニングなどの運動をしながらでは、到底北校舎裏庭に人影がいるか否か、それが動いているか否かを確認することは不可能と思われることなどに鑑みると、そのままでは信用できない。

小倉の控訴審供述も、目撃時の暗さの悪条件、原告との親疎の程度からすると、種々疑問をさしはさむ余地があり、信用度はさほど高くない。

(二) 原告の自白の信ぴよう性について

警察官らの供述を総合して検討すると、少なくとも、武藤警部及び矢野警部補が、原告の供述の仕方次第では、甲野を取り調べることもある旨を示唆して、放火事件の自白を強制した疑いを拭い去ることはできない。

武藤警部は、さほど信ぴよう性のない目撃者の供述や、捜査官が頭の中で作つた嘘に基づいて、現場に行つた記憶がないという被疑者に、自分が現実にその場へ行つたのに、脳梅毒のため記憶を喪失したのではないかと思わせるほど強く追及したり、原告の供述の真偽を吟味するためには必要ではなかつたポリグラフ検査を依頼し、検査直後に原告の取調べを行い甚だしい誘導をした。

原告の小林検察官及び勾留係裁判官に対する否認は、原告の真情の発露であると思われるが、矢野警部補の面前における供述は、同警部補の工作によるものであることが明らかであつて、否認と自白のくり返しは、半割れ状態の下における心理的動揺のあらわれとは考えられない。

原告の供述調書には、供述の矛盾や変遷が枚挙に暇がないほど数多く存在し、それら矛盾変遷は、原告の記憶の変化ではなく、取調官の認識の変化、誤解に基づくものと推認される。

原告の自白に秘密の暴露はなく、秘密の暴露に準ずる事実もない。

原告の自白には、小倉の供述と矛盾したり、放火後しばらく校内に留まつたと述べながら「非常ベルの音を聞いた」という供述がないという不合理な点がある。

放火の動機に関する自白は、全く信用しえないというものではないが、有罪のきめてとなるほどの高い証拠価値を有するものでもない。

本件においては、警察官に対する供述に信ぴよう性のないことが、検察官に対する供述の信ぴよう性をも失わせる特段の事情があつた。

したがつて、原告の捜査官に対する自白は信ぴよう性がない。

(三) 実況見分の指示説明の信ぴよう性

実況見分は、矢野警部補の影響の下に、原告がそれまでの自白の内容に従つて指示説明したにすぎず、原告の捜査官に対する自白と同様、信ぴよう性はない。

(四) 証拠決定について

四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕、勾留にはその理由と必要性があり適法なものであつて、右逮捕、勾留中の本件放火の取調べの適否についても、専ら放火事件の取調べをするために窃盗事件の逮捕、勾留に名を借りたとは認められず、窃盗の取調時間に比べて放火の取調時間がはるかに長いことは認められるが、このことのみから別件の逮捕、勾留に名を借りて専ら本件について取り調べたものとまではいうことができないから、前記逮捕、勾留中の本件放火の取調べが違法であるとはいえない。

したがつて、右取調べによる供述調書の証拠能力を、別件逮捕、勾留中の放火事件の取調べが違法であることを理由として、否定することはできない。

(五) 自白の任意性

原告は、精神的にも肉体的にも疲労困憊した状態の下で、取調官から甲野との関連による精神的圧迫と甚だしい誘導を加えられたものであるから、その結果なされた原告の自白は、四谷窃盗の被疑事実による勾留中のものであると、本件放火の被疑事実による逮捕、勾留中のものであるとを問わず、また、警察官に対するものであると検察官に対するものであるとを問わず、任意性が認められず、証拠能力がない。

5右のとおり、刑事控訴審判決は、小倉供述及び第一審が証拠能力を認めた原告の検察官に対する自白の各信ぴよう性について、結論において、第一審と同じ結論に達し、その信ぴよう性を疑わせる事由として列挙した事項も、第一審とほとんど一致しているばかりでなく、<証拠>によれば、第一審判決より一層信ぴよう性に強い疑いがあることを指摘し、「さほど信ぴよう性のない目撃者の供述や、捜査官が頭の中で作つた嘘に基づいて、強く供述を求め、現場に行つた記憶がないという被疑者に、自分が現実にその場へ行つたのに、脳梅毒のため記憶を喪失したのではないかと思わせるほど強く追及することは、もはや取調方法として許される誘導や駈引の限度を越え、違法のそしりを免れないものといわなければならない。」「原告の小林検事及び同勾留係裁判官に対する否認は、原告の真情の発露であると思われるが、矢野警部補の面前における供述は、同警部補の工作によるものであることが明らかであつて、」と捜査の違法そのものを指摘するに至つていることが認められ、原告の当初の自白、否認のくり返し、自白の内容の枚挙にいとまがないほどの矛盾変遷は原告の警察官及び検察官に対する供述調書から明らかであり、前記四の第一審の審理経過の認定に用いた各証拠及び五の3の控訴審の審理経過の認定に用いた各証拠によれば、前記小倉供述及び原告の自白の信ぴよう性を疑わせる事由を認定するための証拠は、第一審の審理でほとんど証拠調べされており、控訴審の審理で調べられた証拠は、右の信ぴよう性をより一層疑わせ、捜査の違法を明確化するものであつたと認めることができる。

更に、原告の自白の証拠能力について、控訴審判決は、四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕勾留中における本件放火の取調べの適否については第一審の証拠決定と異なる見解に立ち、認定も異なつたものの、結局原告の自白調書の任意性を否定したのであり、第一審の証拠決定においても、控訴審判決が任意性を疑つた重要な事由と同一の事由を挙げて任意性に疑いがあると指摘しており、前掲甲第三号証によれば、任意性を否定する基礎となつた事由は信ぴよう性を疑わせる基礎となつた事由とほぼ同一であることが認められる。したがつて、第一審の判決当時においても、別件逮捕、勾留の違法がないとしても自白の任意性に疑いがあつたことは明らかであり、仮に、証拠能力が認められたとしても、すでに証拠能力が認められていた供述調書同様、信ぴよう性に疑いがあつたことも明らかであつた。

6<証拠>によれば、午前二時ころの体育館裏の状況では、小倉が、人影が看護婦寮の方を見たという地点における人物の人相や服装を識別することはできず、すぐそばを通つたという地点における人物でも着衣の色やズボンの裾の折り返しの有無などは識別しえなかつたこと、小倉は本件放火後川内から教えてもらうまで原告の名前も知らず、夏に水泳のサークルで四、五回一緒に泳いだことがあつたにすぎないことが認められるから、右の点を考慮すると、第一審判決が小倉供述の信ぴよう性を否定したことは正当であつたというべきである。

原告の警察官に対する自白の内容に重要な部分で度重なる変遷があり、それが、取調官側の変化又は勘違いに起因すること、すなわち、武藤警部及び矢野警部補から全面的な誘導があつたこと、原告と甲野との関係を利用した自白の強制があつたこと、武藤警部の執拗な追及があつたことなどは第二の六2、3、4で認定したとおりであり、原告の自白に秘密の暴露がなかつたことは第三の三4で認定したとおりであつて、検察官の前においても原告が警察官の心理的強制の下にあつたことは第三の二1で認定したとおりであるから、第一審判決が、証拠能力を認めた供述調書の自白の信ぴよう性を否定したことは正当であつたということができ、また、別件逮捕、勾留の違法によつて証拠能力を否定した供述調書も、任意性がないものとして証拠能力は否定されるべき供述調書であつたことは明らかであるから、証拠能力を否定したこと自体は相当であつたというべきである。

したがつて、第一審判決には、判決に影響を及ぼすような事実誤認又は法令違反はいずれもなかつたものといわざるをえない。

7控訴の提起、追行においても、控訴棄却の判決が確定したというだけで直ちに控訴の提起、追行が違法となるものではないことはいうまでもない。

しかしながら、右5のとおり、第一審の審理において、小倉供述及び原告の自白の信ぴよう性を疑わせる事由を認定するための証拠はほとんど証拠調べされていたこと、右3のとおり、控訴審において、検証及び小倉、武藤警部、矢野警部補の証人尋問しか検察側の立証が許されていないこと、右1、4及び5のとおり、第一審判決と控訴審判決とで小倉供述及び原告の自白の信ぴよう性に関する判断は理由を含めて同一であつたこと、仮に、四谷見附窃盗の被疑事実による逮捕勾留中における本件放火の取調べの適否についての見解が異なつても、原告の自白のすべての信ぴよう性には疑いが持たれることは明白であつたこと、右6のとおり、本件全証拠によれば、第一審判決に判決に影響を及ぼすような事実誤認又は法令違反はいずれもなく、第一審判決の信ぴよう性に関する判断の正当性を裏付けられることと右2の検察官の控訴理由とを併せてみると、検察官は、小倉供述については、第一審の証拠調べの結果、実況見分調書の明るさの記載に疑いがもたれ、供述自体からも信ぴよう性が疑われるようになつたにもかかわらず、相変わらず実況見分調書に依拠して、その信ぴよう性を主張し(確かに、検察官は、控訴審において検証を申請した。しかし、控訴審の検証によつて、果して検察官の主張するような結果が得られるかには、疑問があり、むしろ、第一審の検証の結果をも踏まえれば、控訴提起に際し、控訴審の検証の結果により小倉供述の信ぴよう性に対する疑いを完全に拭い去ることができると判断することは困難であつたというべきである。)、原告の自白については、ポリグラフ検査鑑定書、検査技師、取調立会いの警察官のみならず取調官自身の各供述などの証拠や供述調書自体の検証から、信ぴよう性及び任意性に相当疑いが持たれるようになつたにもかかわらず、これら信ぴよう性及び任意性を疑わせる証拠を無視又は軽視し、第一審判決の指摘した数多くの信ぴよう性に対する疑問をことごとく氷解させるだけの証拠もないまま、その信ぴよう性を主張して控訴を提起、追行したものというほかはない。検察官において、右各点につき相当の注意を払えば、有罪判決を期待しうる合理的理由が乏しいことが判明し、控訴の提起を避けえたにもかかわらず、あえて控訴を提起し、これを追行したものといわざるをえず、検察官の控訴の提起、追行は違法であつたというほかはない。

六武藤警部及び矢野警部補の不起

訴処分の違法性の有無

第二の六6で認定したとおり、武藤警部及び矢野警部補は、取調方法として許される限度を越えた違法な取調べをしたということはできるが、右取調べをもつて、脅迫、拷問とまではいうことはできず、他に本件全証拠によるも、武藤警部又は矢野警部補に特別公務員暴行陵虐罪で公訴を提起することを相当とするだけの嫌疑が存在すると認めるに足りる証拠はない。

また、検察官のする起訴、不起訴処分は、公益の立場においてするものであつて、告訴人の私的利益保護のためにするものではないから、告訴人が不起訴処分に関して、法律上保護すべき利益を有するものとはいえず、したがつて、原告は、不起訴処分の違法性を理由として、国に対し損害賠償を請求することはできないといわなければならない。

したがつて、いずれの理由によつても、不起訴処分の違法をいう原告の主張は、採用することはできない。

七以上のとおり、控訴の提起、追行は検察官の違法な職務行為ということができるところ、右検察官が国家公務員であることは原告と被告国との間において争いがないから、被告国は、検察官の右違法な職務行為につき原告の被つた損害を賠償すべき責任がある。

第四  原告の損害について

原告が昭和四八年一一月一二日に窃盗で逮捕されて以後同月三〇日まで及び同年一二月一五日以後同四九年七月に保釈されるまで身体の拘束を受けたことは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、原告が保釈された日は同月一四日であると認められるから、原告が身体の拘束を受けた期間は二三一日間であつたと認めることができ、当初の逮捕の被疑事実であつた四谷見附窃盗は起訴され、他の一一件の窃盗と共に、懲役一年六月、執行猶予二年の有罪判決の言渡しを受けたことは第二の三1で認定したとおりであるが、<証拠>によれば、窃盗関係の最後の起訴は昭和四八年一二月二六日であつたことが認められ、<証拠>によれば、原告は、窃盗に関しては公判廷でもすべて認め、検察官が取調請求をした書証もすべて同意したことが認められるから、右の起訴後約二か月を経過した後の勾留は、専ら本件放火のための身柄拘束とみることができる。

更に、原告が、昭和五三年四月一二日本件放火について無罪判決が確定するまで、約四年五か月の長期にわたり本件放火の被疑者、被告人の地位に置かれたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、原告が警察官の違法な取調べ、身柄拘束、長期間被告人の地位に置かれたことによつて精神的苦痛を受けたことが認められ、<証拠>によれば、原告の自白調書があつたからこそ本件放火について公訴提起に至り、控訴提起にも至つたもので、自白調書がなく当時の他の証拠のみでは公訴提起に至らなかつたことが認められるから、警察官の違法な取調べにより原告が被つた精神的苦痛に対する損害額を定めるについても、右の点を斟酌する必要がある。

右のほか、警察官及び検察官の各違法な職務行為の態様、程度、当時の原告の境遇など諸般の事情を総合考慮すると、原告の被つた精神的苦痛に対する慰謝料としては、二〇〇万円をもつて相当と認める。

また、本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らすと、原告が被告らに対して賠償を求めうる相当因果関係の範囲内の弁護士費用としては、四〇万円をもつて相当と認める。

なお、警察官及び検察官の各違法な職務行為は、取調時と控訴提起、追行時という刑事手続の異なつた段階において行われたものであるが、右は一連の刑事手続であり、取調時の違法が控訴提起にまで影響を及ぼしたことは右認定のとおりであるから、被告らの損害賠償債務の関係は、いわゆる不真正連帯債務の関係とみるのが相当である。

第五  結論

以上の事実によれば、原告の本訴請求は、被告らに対し、各自本件損害賠償金のうち金二四〇万円及び慰謝料相当分二〇〇万円に対する不法行為の後である訴状送達の日の翌日の昭和五四年一月二一日から、弁護士費用相当分四〇万円に対する本訴第一審判決言渡しの日の翌日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において、いずれも理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を適用し、仮執行の宣言は相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(小倉顕 山﨑宏 江口とし子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例